turuya

西鶴アーカイブ

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 【感情は抑え込まない】

ニッケに食料の買い出しにきていたんだが、確定申告の相談会場になってるもんだから人が多い。
 
イライラする。
イライライラン!イライライラン。エコエコアザラク
ヲマエノカーチャンデーベーソー!
 
いや、イライラするのは人が多いからではなくて、何十回と校正を繰り返す仕事があったから。
 
考えられない回数だが、変更が多いのだ。決めてから発注したらいいようなもんだが、こゆ所は組織的に問題があるケースが多い。
 
イライラはイライラを呼び込む。
なんでかというと、感情は外に出たがるという性質を持つから。
 
そう、今ワシは怒りをぶつけるものを探している状態なのだ。
 
むしろ、今は「タダでデザインしてくれ」なんてことを言う奴が出てくるのを望んでさえいる状態なのだ。
 
そしてなるべくそれは大義が掲げられるほうがいい。
正義の名の元にコテンパンにできる相手はいないものか。
 
そういう心境なのだ。
 
で、目の前を子供が横切る。
 
子供は身長が低いから、視界に入りにくい。ウロチョロされるとうっとおしいのだ。
 
その子は、ちょこちょことワシの進路を遮り、イスに座ってるお母さんの腕の中に飛び込んだ。
 
子供と目があった。
 
と、その時子供は何が嬉しいのかワシに向かって手を振ったのだ。
 
すげー無邪気に。何の作為もなく、意図もなく。
ただ、無邪気に手を振ってニコニコしたのだ。
 
子供の無邪気さを無駄にしてはいけない。そんな些細なことが、この子の人生に大きな意味を持つ。
 
そう思ったワシはむりやり口角をあげて、引きつった笑みを浮かべて子供に手を振り返した。はーい、変なオサーンでちゅよー。
 
誰かが見てたらすごく不自然に思っただろう。
 
お母さんがその様子に気がついてワシのほうを振り返った。あ、どうもというように会釈された。
 
なんか恥ずかしくなってワシはその親子から、まるで逃げるように場を離れた。その先に銀行のATMがあって奥のの鏡に自分の姿が映っているのがみえた。
 
ワシはすげーニコニコニーな笑顔だった。引きつってはいたけれど。
 
 
感情はその出口を常に探して身体中を駆け巡り、すきあらば外にでようとする。それは人が一人では生きていけない生物だから仕方のない「生理」だ。
 
感情は言葉になる以前の、コミュニケーションであり、それを抑えることが大人であるとされる。
 
なぜかというと、いちいち個人の感情が放出されるとややこしく、うるさいからだ。それは組織の効率化を損なうからだ。
 
学校では、高学年になるほど個人の感情はコントロールを要求され、コントロールされるように訓練される。
 
とくに和を重んじる日本の場合は、公共ではにこやかに静かに過ごすことがよしとされ、電車に乗り遅れてガッデム!と叫ぶ奴はめったにいなくて、苦笑いする人ばかりだ。
 
最近はボーズが書いた怒らない技術系の本が売れているらしいが、読んだことないけどそのボーズは怒りは不必要だと言ってるんだろうか?
 
たしかに怒りを抑えるのは「技術」には違いない。それは後天的なコントロールで、おちっこを我慢するのと大差ない。
 
が、ワシは感情は重要なものだと思っている。
我慢は必要だがいらないとは思わない。
 
しかし、今、外部にでたがっていた怒りの感情は嘘のように消失している。たった一人のガキの無邪気な笑顔だけでだ。なんだこれは。
 
そういえば、あの無邪気さはワンコに似ている。
 
うぉーふもエースもヤクザ犬も、けいちゃんですら散歩に行くと無邪気に走り回ってニコニコしていた。
 
んで、そのたびにワシはきっと、感情の運命の輪が瞬時に逆回転していたのだ。
 
人は、大昔の人は、言葉もまだ発達していないぐらいの昔の人は、きっと意図のない笑顔で、群れの中で個人の感情を緩和していたんだろう。
 
犬はそんな群れの能力をまだ兼ね備えているんだろう。
 
そんなことを考えながら、ワシはニコニコ買い物をしたのだった。
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