turuya

西鶴アーカイブ

いろんなところに書いてきた文章のアーカイブ

泣けばいいと思うよ

f:id:hotkakogawa:20180317170150j:plain

この前、某所で喋っていたら、その場にいる人のほとんどが鬱っぽい状態になったことがあるという恐るべしことが判明した。
 
その中の一人は、なったことがないって言ってたが、話を聞いてみると自覚がなかっただけだったという。
 
かくゆうワシも、もー何十年も前になるが、「あれ?なんかヘン」ってことで大事にはいたらなかったことがある。その時は、Yahooの運営してたアダルト(笑)なチャットルームでずいぶん救われたというのは、もーワシのしゃべくりのネタの一つだ。
 
で、鬱についてしゃべれつーんで、短く喋ってきたけど、あんまりそこで長い話をするのもどーかと遠慮して、中途半端に喋くってきたんで、ここでちゃんと文章にしとこうと思う。
 
まず、何が起きてるか。
 
鬱ってココロの問題って言われているけど、ココロの問題っていっても根性論ではなくてちゃんとメカニズムがある。このヘンは専門家ではないんでざっくりなんだが、脳の神経は絵に書いたように隙間があいていて、この隙間を情報がキャッチボールみたいに飛んでいくらしい。
 
なんで隙間があいてんの?っていうのは長くなるからまた別に書くけど、これは生物の特徴でもあるダイバーシティ戦略、常に多様性を残していくということではないかと思う。
 
で、このキャッチボールがうまくいかなくなると、症状として鬱と診断される。
「症状として」と、あえてややこしい書き方をしてるのはワシはそれが故障だとは思っていないから。むしろ故障しないためのメカニズムではないかと思っている。
 
なんでこのキャッチボールがうまくいかなくなるかは諸説あるらしいが、ワシは「鳴らない太鼓」理論だと思っている。
 
鳴らない太鼓。叩いても叩いても鳴らない太鼓。そんな太鼓を叩き続ける人は皆無だ。反応が無いものは反応させようとしなくなる。選挙率の低さなんかもこの鳴らない太鼓だと思っている。
 
特に感情。これはココロの反応で、熱いものを触るとあつっ!って手をひっこめるようなもので、悲しいときに泣きたくなったり、嬉しいときに笑ったり、悔しいときに怒ったりするのだが、社会ってこの反応を抑えないとうまくいかないことが多い。
 
実際、仕事していていちいちこの反応に振り回されていたら、とてもシンドイことになるのは事実だ。また、コミュニケーションにも支障がでる。まえに「女はすぐに泣くんで困る」みたいなこと言った政治家がいたっけ。実際、理論だててということに感情が入り込むことはヨシとされない風潮がある。そうこれはあくまで「風潮」なのだ。人は感情で動いているのは事実である。
 
本当は、感情を受け入れる社会ってものを考える必要があるけど、これはまた別の機会に考えるとして、ひとまず横に置いておく。それは社会論の分野だ。とりあえずは個人の鬱状態を治すことが先決だからだ。
 
そんな感情という反応を無視しつづけていると、鳴らない太鼓理論で、脳内の神経のキャッチボールをやめてしまうのだ。で、症状としてフリーズ状態、動けなくなってしまう。
 
鬱の前段階で特に悲しくもないのに涙が止まらんことがあるが、あきらかに身体は泣きたがっているのだ。感情は言語をともなわないノンバーバルなコミュニケーションのひとつでもある。だからアウトプットする場が必要なのだ。
 
薬は、キャッチボールの投げる方を活性化したり、受けるほうを活性化したり、キャッチボールのボールを増やしたりする。そんなことでなんとかキャッチボールを再開させようとする。けれど、それは原因解決ではなくて、とりあえずの処置でしかない。休むというのも同じくとりあえずの処置だ。
 
鳴らない太鼓を鳴るようにしなければ、無理やりブーストさせて活性化させても、またキャッチボールを諦めてしまうかもしれない。
 
じゃ、どうすんの?
 
まずは、とりあえずの処置をする。動けないままでは何もできない。とりあえず、動けるようにする。ブーストでもいいから動けるようにする。
 
これは体質改善するまえにとりあえず今の症状をなんとかしましょうという方法論と同じだ。
 
キャッチボールのボールである神経伝達物質の一つ、セロトニンを増やすためにすべきことは、そのへんの本屋に山のように情報がでてる。
 
朝日を浴びる、運動する、リズムを刻むなど。
 
この前は腸を鍛えろとなにかで書いてあったが、腸には大量のセロトニンがあるからだと思うが、頭の中のセロトニンは脳の関所を突破できないので、これはマユツバではないかとワシは思っている。
 
ただ、腸は鍛えたほうがいい。腸には人間が生きていくのに必要な菌がたくさん住んでいてフローラを形成しているからだ。この菌たちのかっこうのエサが水溶性植物繊維。今含量が多いのは海藻。ヨーグルトと一緒にたべるといい。
 
赤ちゃんにハチミツやったらダメなのも、ハチミツは天然の抗生物質で腸内の菌を殺しちゃうから。大人はその量においてだいじぶなのだが、あんまり取りすぎるとよくない。風邪ひいたときは効き目ばつぐんだけど。
 
頭の中のセロトニンは、トリプトファンというものから形成される。米にはトリプトファンが大量に含まれている。「ごはん食べんと頭がはたらかへんよ」って言うのは、理にかなっているようだ。
 
ちなみに米よりトリプトファンを含んでいるのがヒマワリの種。ダイエットしてるやつは、米の替わりにこれをポリポリしてるといい。
 
で、こうやってメカニズムの正常化をはかると同時に、一番の元凶、鳴らない太鼓を鳴る太鼓にしていく必要がある。
 
とはいえ、子供のように感情を受け入れ、アウトプットしていくには社会はまだまだ未熟な部分がある。アナと雪の女王のように「ありのまま」は受け入れがたいからだ。鬱が回復しても社会的に抹殺されては生きていけない。
 
そこでよく言われるのが、コミュニティの存在。
 
ありのままを受け入れてくれる存在だ。家族とか、昔から付き合ってる同級生とか、そういった存在は愚痴を言ってもわがままをいっても許されるコミュニティだということなのだが、これも最近はかえって鬱の原因となるようなコミュニティが多いような気がする。
 
あーたが誰であっても受け入れるよという落語の長屋のようなコミュニティは皆無といっても言い過ぎではないように思える。
 
ないならつくっちゃえと言うのはワシの考えだが、それはそれで動かないといけないので元気なときにやっておくほうがいい。風邪ひいて熱出てるときに身体を鍛えるようなもので、かえって悪化しちゃうからだ。
 
で、ワシがやっているのが映画や小説や漫画で号泣すること。これが一番手軽。
 
仕事が混んできたとき、ワシの仕事の場合はホントにたとえでなくトイレにいく時間もなくなる。
 
最近は老犬介護でセーブしてるんでそうでもないが、忙しいときは自分がロボットになったように感情を無視して淡々と目の前の作業をこなしていかなければならない。
 
感情を無視しつづければ1週間もあれば脳内で鳴らない太鼓現象がおきてくる。美味しいものを美味しいと思えなくなり、綺麗なものをキレイと思えなくなり、世界はモノクロームになってくる。
 
そうなる前に、映画や小説や漫画で嗚咽するぐらいに号泣することで鳴らない太鼓は鳴るんだと身体は再び認識し直す。感情はふたたび動き出す。
 
なんで「泣く」なのか。「笑い」ではないのかというと、笑いは社会に受け入れられているからだ。笑って許されないのは葬式と正式な式典や堅苦しい会議ぐらいで、笑いは社会に受け入れられているからだ。
 
悲しみや悔しさを笑いに変換しようというメソッド、いわゆるポジティブシンキングは笑いはどこでも発動できるからということなわけで、笑も泣くも「前向きなこと」には変わりはない。
 
鬱に効くメソッドとして認知療法というのがあるが、これも感情の転換・変換のひとつである。
 
だが、たとえば震災で家族を失うなどの状況の場合、その変換は困難を伴う。震災の慰問で漫才をしにいくというのがあるが、悲しみの真っ只中では対岸から頑張れと言われているように、あるいは悲しんでいることを否定されているような気になってしまうのだ。
 
そんな時は、泣いてもいいんだ、悲しんでもいいんだと、寄り添うことのほうが回復は早い。
 
笑えば、病気も治るというが、泣いても同じ効果があることはあまり言われない。人は泣きながら生まれてきたのにもかかわらず、泣くのはよしとされていない。
 
泣くのは、群れに対するヘルプミーだ。動物は泣く個体に寄り添うことで助け合う。人は泣く個体は足をひっぱるといつしか思い込んでいる。
 
電車の中で泣くガキは、たしかにウルサイし、イライラするが、なぜイライラするかというと悲しんでいる個体をほうってはおけないというプログラムがあるからに他ならない。
 
けれど、そこにかまっているほど、社会的に余裕はないのが現状だ。
 
ここでなんらかのアクションを起こすことができるほどには社会の余裕はなくなってきているのだ。少子化といいながらも子供の泣き声ごときにも寛容になれなくなってきているのだ。
 
 
 
と、まあこんなことを言いたかったのだが、途中で長くなりそうで遠慮しちゃった。
 
ただ、この話は大前提としてメディアリテラシーを持って読んで欲しいナーバスな話題である。
 
ここで書くのは、あくまでFacebook用に書いてるもので、ワシの勝手な解釈で絶対のものではないということ。
 
また、これは病気全般に言えるころだが、鬱ってのは症状のことであってその原因となることは様々であって、具体的な脳の故障である可能性もあるということ。
 
ここで語っている鳴らない太鼓は、あくまでワシの身の周りの人を見て思ったことであり、日本の環境を前庭としたライフハック的なもので、たとえば戦場で人を殺したみたいなケースは、ある種の洗脳プログラム的なものでないと効かないということもあるかもしれない。
 
 
 
ベトナム帰還兵がらみのココロの問題解決をルーツとした洗脳プログラムを汎用化した自己啓発的なメソッドや、霊能的な解釈や、さまざまなものも出回っているのでそのあたりもリテラシーを持って対応すべきである。
(2015/7/19)
| Style : Background3, Font0, Size20 |