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西鶴アーカイブ

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あっちこっちでっち〜暗黙知は言葉にすると憑依する性質を帯びる〜

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暗黙知って言葉がある。
 
これは、口で説明できんようなスキルのことで、デザインなんかはその辺りの要素が多い。あと料理のレシピとか、ああ、スポーツなんかはまさにそれだな。つか、いろんなことが基本的に暗黙知だ。
 
で、日本の場合、長い間この暗黙知は、丁稚奉公という形で次世代へと伝えられてきた。その方が効率的というよりも、そうでなければダメだったんだろうと思う。
 
昔は、それが当たり前であったから暗黙知を計測するモノサシというものが開発されていないし、まただれもそれを開発しようとする人もいなかった。そういった「技」は、我が家のぬか漬けのように口伝で、世代へと伝えられていったし、世代ごとにアップデートされていったl
 
この暗黙知に対して、誰でもスキルが短期間で覚えることができるようにしたもの。これは形式知と呼ばれる。いわゆるマニュアル。
 
これは本屋にも数多く並んでいる。
 
デザインの本なんかはほとんどがこの形式知のものだし、さらにそのほとんどがソフトの使い方だったりする。
 
余談だが、マイナーなソフトである「コーレルドロー」使いのワシ的には、まったく意味がねー。(ないんだったらワシが出そうかと思ったが、絶対分母が少ないんで売れない)
 
さらに余談だが、デザインとかはソフト使えたら仕事でけると勘違いする奴が多発。それにともない、ふつーのスキルが格上げ。ちょっとしたスキルは神さまに格上げされている「バブル」があるが、全体で見ると品質は低下している。
 
話を元に戻す。
 
この形式知。日本にはあまりなかったもので、海外から輸入されてきた概念だ。この辺りは、組織論にも関わってくる話なのだが、それはながーなるんで、また今度。
 
形式知の問題点は、マインドセットが形式化されないこと。マインドセットとは、いわば「心構え」というやつ。日本で形式知がスタンダードにならなかったのは、マインドセットスキルアップとともに学んでいくものだと考えられていたから。
 
つまり、日本ではヒトはとても大切な資産で、それによって事業が成されていくというのがスタンダードだった。ヒトを長い時間かけて育てることが、事業継続のキモだという考えだったのだ。
 
かつての日本には、100年以上つづく事業主体、いわば老舗がたくさんあり、これは海外に比べるとスゲー貴重なことらしい。この違いは、形式知というマニュアルに走らなかった、走れなかった、ヒトをパーツとして見れなかった、一攫千金を狙う資源がなかった、ゆえに仕事がギャンブルでなかった、そういう日本ならではのことではなかろうか?
 
ワシも仕事柄、いろんな経営系の本を読んだりするが、多くは海外から輸入されているものが多い。
 
中には日本発信のトヨタの「カイゼン」や、野中郁次郎さんの暗黙知形式知に変えていく飲み会のススメ、SEICモデルだっけ?みたいなものもあるが、 いずれにせよ、これらの論文自体が、暗黙知形式知にかえ、さらにマインドセット形式知に替えようという、根本的なジレンマを内包しているというのがワシの考えだ。
 
しかし、会社や事業の形態からして丁稚奉公時代とは大きく変わってしまった。これらの丁稚奉公の形態を維持しているのは「能」とか「歌舞伎」とかの一部の世界だけだろう。
 
日本で、会社を意味する「屋」。ワシの個人の屋号にも使われている鶴屋の「屋」。これはカンパニーではなく、生き方ともリンクする仕事。ワシの言うところの「ジョブ」のことだ。
 
つーことを、市民団体の総会の最中に書き上げた。有意義な総会だった。
 
 
 
※そういや、最近流行りの「イノベーション」。これなんかは、歌舞伎の誰か忘れたが、言った言葉、「型があるからー、かたやぶり、型がなけりゃ、かたなしですわなぁ」が、破壊的イノベーションの本質を突いてる。
(2015/5/10)
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