turuya

西鶴アーカイブ

いろんなところに書いてきた文章のアーカイブ

あーたとわたしが同じなら、あーたとわたしである必要ないにゃ

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閉鎖空間の向こう側で書いた最後の方。
「世界を拡張するにはあらがうことだ」って部分。
 
今まで鶴さんは対話ってーいってたやーん、なんで今回はあらがうことなの?」つーことなんだが。
 
たしかに、ワシは缶コーヒーを片手ににこの説明をよくしていた。
 
缶を真上が見えるように見せて●に見えるだろうと。
けど、横から見てるワシには長方形に見える。
 
どちらも正解だが間違ってもいる。
 
自分を信じること。また自分を疑うこと。この肯定と否定を同時に持つことが中庸と言われるもので、この先に世界は拡張される。
 
●に見えてる人と、長方形に見えてるワシ。2つの世界が融合したらさらに上の次元である立体が見えるようになる。これが世界が拡張したということ。
 
そんなふうに喋っていた。
 
が、ここには大きな大前提が存在する。
互いに世界を拡張しようという気持ちがあるという前提だ。
 
仮に相手が「自分の見ている世界で充分だ、世界の拡張なんて望んでいない」というなら、対話にはならない。
 
前回例にあげたカスタマーサポートのような喋り方をする人も、基本は仕事から逃げたいわけでスキルアップも世界の拡張も望んでないかいないのだ。
 
またコミュニティの内部に閉じこもる人もしかりだ。
 
つまり、だから閉鎖空間なのだということ。彼らは望んで閉鎖している。彼らにとっては、対話も議論も、銃を振り回し攻めてくる戦争と区別がつかない。
 
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ちょっと前に読んだ村上龍の小説「オールドテロリスト」で、こんなセリフがでてくる。
 
「若い奴は死にたがっているんだよ」
 
ちょうど、この小説読んでた頃に、漫才師のウーマンラッシュアワーだっけ?が朝生の討論に出ていて、沖縄は中国から日本が奪ったんでしょとトンデモないことを言い出して炎上してた時期だ。
 
んで、その漫才師は日本が攻められたら僕は素直に殺されますよと。
 
村上龍は「死にたがっている」という表現をしたが、ワシは「生きることにそんなに熱心ではない」という表現の方が正確な気がした。
 
これをワシは「鳴らない太鼓」という理屈で説明できるのだが、長くなるんでそれはまた今度書く。
 
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人の欲求を積み木細工のような段階として定義したのは心理学者のマズローで、五段階欲求説とかは古典だし、それゆえ誰もが知ってる説だ。
 
まず、食べたり寝たりという生存する欲求がある。これは生きていくために最低限のものだ。
 
それらを確保し、失われたり奪われたりする不安がなくなると、次に名誉とかを欲するようになる。
 
が、この名誉という言葉がクセもので、ハッキリ言ってこれは誤訳であるか、悪意ある解釈である。
 
たしかに事業で成功して、んじゃ次は選挙にでるかというステレオタイプなヒトは多いが、マズローの言う名誉はこういったものではない。
 
これこそがワシのよく言う「存在を持って系に何ができるか」ということだ。
 
つまり、群れの役に立ちたいという欲求。承認欲求の高次なものと考えてもいい。
 
最近は若い人が社会起業家を目指すケースが多いが、ワシの世代ではそんな奴はほとんどいなかった。
 
子供の頃は、高度成長と言われて東京オリンピックが開催され、そらにはキドカラーの飛行船が飛び、宇宙船のような掃除機が売れていたが、それでも貧困はクラスの中に存在してたし、まちの片隅には乞食がいたし、片足でアコーディオンを引いてる人がいた。
 
そんな光景を横目で見ながら、繁栄は砂上の楼閣だとワシらはココロに刻んだ。
 
ワシらの親の世代になると戦後を経験しているから、この砂上の楼閣のニュアンスはさらに濃くなる。
 
時々、ゴミ屋敷が問題になるが多くの老人たちはモノが捨てられない。スーパーのレジ袋や紙袋をはじめ、あらゆるものをとっておこうとする。
 
またタンス預金が多いのもこの年代で、ジジババは、いつ砂上の楼閣が崩れても生きていけるように自分の城を築こうとする習性があるのだ。
 
社会起業家の若い人と話しているとそういったトラウマ的とも言える習性はほとんど見られない。
 
中にはシェアハウスで暮らし、自分の持ち物はSNSができるスマホぐらいで、車も金も服も彼女もいらないという人もいる。
 
ただ、彼らが一番欲しているのは、自分を理解してくれる友達なのだ。
 
彼らが一番恐るのは、砂上の楼閣が崩壊することではなく、ソロ(一人)になる孤独なのだ。
 
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●と長方形の話にもどろう。
 
●だ長方形だと自分の見えてるものを議論することから対話は始まる。やがて、なぜあいつは自分と違う見方をするんだと違いが疑問に思い始める。
 
そして、もしかしたら自分は間違ってるんじゃないかと思い始める。自分への否定だ。
 
自分の意見が正しいという肯定から否定へ。
この振れ幅は、ワシのよく言う進歩の形だ。横から見ると、躁鬱の曲線に見えるだろう。
 
だがこれは躁鬱の曲線ではなく螺旋の形である。
万物は螺旋状、あるいは波状に動く。
 
この肯定と否定の狭間、中庸の向こうに次なる世界、あなたもわたしも半分間違っているけど、半分正解だという缶コーヒーの立体像が立ち上がる。
 
これが世界の拡張だったはずだ。
 
が、ソロを恐るからこの議論がまず起こらない。
「あの人とは関わらないでおこう」
「とりあえずいい返事だけしておこう」
そんなふうに逃げ続ける術を身につけている。
 
「存在を持って系に何ができるか」なんてどうでもよく、まず存在を認めてくれる「ように見える」友達を求めている。
 
そのための媒介がエコであったり社会起業であったりゲームであったりネットであったりする、閉鎖空間だ。
 
 
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村上龍は、このことについて「オールドテロリスト」で、テロを起こすジジイたちにこう言わせている。
 
「この国はもう一度焼け野原から再起動させないとダメだ」
 
(再起動はワシの言葉、こーゆーニュアンスのこと言ってた)
 
が、その言葉に反応するのは若い奴ではなくてワシと同じ50代のオサーンなのだ。
 
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ワシが前のカキコで対話でなく、あえて「あらがう」という言葉を選んだのはこーゆーこと。