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西鶴アーカイブ

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神(化)我観を磨く~カミサマの顔~

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寒いんであんま掃除する気になれん。
 
それと、ワンコがいたらすげー汚れるんで、掃除しないわけにはいかないんだが、ハテにゃんだけだと大したこともない。
 
なので最近はだんだんものぐさになってきたんで、やっぱ生活は自分じゃないもののためにあるんだろうなと思うわけ。
 
で、これはイカンと年末の掃除だ。まずは鏡を磨く。
うーん、ナイスガイ!オレ、カッケー!
 
自分を他人の目で見ることができる唯一のアナログ装置が鏡だ。
 
鏡についていろんなことを考えたのは小学生の頃。
母親が残していった三面鏡が家に置いてあって、その開く面を向かい合わせにすると、そこには鏡の世界が無限に続いていた。
 
それは神社の鳥居が繋がっている異世界の参道みたい見えた。ひょいとそこに入っていけそうな気がしたが、戻ってこれないような気もした。
 
お化け屋敷の前で、入るのは怖いけど入ってみたいとウロウロするように、ワシは三面鏡の前で何時間もウロウロ眺めていた。
 
そんなとき、童話で犬が川に映った骨を加えた自分をみて、ワンと吠えて骨を川に落とす有名な童話についてよく考えていた。
 
見る自分と見られる自分。これはどっちが本物の自分なんだろう?
 
神社の扉開けたら御神体に鏡が置いてある。
そこには自分の顔が写っているわけで、これはこれは奥深いなと思う。
 
オモロイもので、この自分の姿を見る唯一のアナログ装置である鏡は、他人の目である。
さらに言えば、つまりは自分の認識は全て世界という鏡に反射した像だとも言える。
 
 
 
だから、ワシが嫌だなと他人を見るときは反射している像を見ているわけで、ニワトリとタマゴじゃないけど、「ワシが」嫌だと思ったのか、「向こうに嫌なものがある」のかは、よくわからない。
 
ワシが右手をあげると、鏡の中の奴は、(鏡の奴からして)左手をあげる。ワシは反対だと思うが、向こうも反対だと思っているだろう。
 
そう考えると、たしかに世界は想念の反射で構成されているという仮説は、間違いではなさそうだ。これはどっちが本当なんだ?
 
んで、その互いの持つ鏡にうつるものは、どこから来たんだということで神さまの座に鏡が置いてある。
 
-
 
どれ、年末だし神さまの顔でも拝んでおこう、ギギギギー(扉開ける音)。
 
あれ?神さまいねーじゃん、つか鏡に自分の顔写ってるじゃん。あ、ワシが神さまなん?
 
お詣りに来た人が皆この調子で、自分が神さんじゃんと思って帰っていく。
 
こうして、神さまは皆に宿る。
だれのところにも宿る。
 
2017年が終わる。
 
鏡的に言うなら、
ワシを嫌いな人も、ありがとう。んで、おめでとう。
ワシが嫌いな人も、ありがとう。んで、おめでとう。
 
いつもクソ長いの読んでる人、いいねくれる人、こそっと読んでる人、みなさん、ありがとう。んで、おめでとう。
 
※ちょっとね、仕事がらみでいろいろ調べていて思ったたんだが、
 
「競争」や「議論」や「違い」が、いつのまにか「争い」になってることが多い。
 
これは対他人、対事象でもそうで競争、議論、違いは明日をクリエイトできるけど、争いは衰退しか呼び込まない。
 
神さんは鏡っていう真意はここにあるのかなーと。
 
初詣いったら、願いごとじゃなくて、鏡に映るものにセンキューって言ってくるわ。
(2017/12/24)