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西鶴アーカイブ

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私は特別な存在シンドローム~スペシャルな自分への渇望~

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「千の英雄」という本がある。
帯には「スピルバーグもこの本からアイデアを得ていた」と大きく書かれている。
 
内容は、この本は、あらゆる世の中にあるストーリーは、神話の世界に原型(アーキタイプ)があって、どんな物語もそれを単純化してゆくと、このアーキタイプにいきつくというもの。
 
(実は読んでないんで内容は想像なんだけど、たぶんそんなことが書いてあるはず)
 
たとえば桃太郎の基本プロット・・・目的のために仲間をどんどん増やしていって、皆の力をもって目的を達成する・・・なんてのは、山のようにある。水滸伝アストロ球団里見八犬伝・・・。あ、ドラクエも。
 
そんなストーリーの原型は、人の心の奥底にデータベースとして保管され、それは自分の人生にも影響を及ぼしている。
 
たとえば、多くの日本人は「努力して勝ち取る」というストーリーが頭のデータベースに刻み込まれているから、「努力しないで  勝ち取った」ことには、どこか違和感を覚えるという具合だ。
 
 
ユングの心理学なんてのは、そのあたりを核にしているところもあって面白い。
 
で、これらの原型のストーリーに唯一抜け落ちているものがある。
 
それは、ごく普通の人のストーリー。
なーんのへんてつもない、顔のないストーリー。
特に山場もなく、ドラマチックでないストーリー。
 
これらはいつしか「物語」ですらなくなってしまっている。
 
 
このあたりに気がついたのが中島らもだ。
 
京都のミニコミペリカンクラブ」で中島らもは、「普通の人インタヴュー」という連載を持っていた。
 
これは、そのへんにいるおっさんや、オバハンにインタヴューをするというもの。
 
これは、「有名でない人にもストーリーがあるんだよ」というよりは、ストーリー性やヒーロー性の否定が企画の趣旨だったんじゃないだろうか?
 
それは、このペリカンクラブというミニコミの全体の雰囲気から、ワシが勝手にそう思ったわけで確証はないんだが、中島らもらしいなと思う。
 
 
ところが、オモロイことにこの普通の人インタヴュー。全然、普通の人になっていない。
 
それは中島らもの「聞き出し能力」と「文章力」にもあるんだろうし、またインタヴューの対象者が年代的に戦中戦後の話にどうしてもなってしまうというのもあるんだろう。
 
 
ここでワシは、「いやぁ、人は一人一人がそれぞれの物語を持っていて、唯一無二の存在なんだよ」なんて、クソ緩いことを言うつもりは、まったく無い。
 
むしろ、問題定義したいのは、中島らもの「聞き出し能力」「文章力」のほうである。
 
つまり、この企画が中島らもではなく、ヘタクソな奴がインタヴューしていたら、普通の人はやはり普通の人だったんじゃないだろうかということだ。
 
もちろん、そんなもの誰も読まないだろうけど。
 
 
 
中島らもは、広告屋であるし、小説も書いてるし、マルチな仕事をこなしていたが、基本的にはエディタ(編集者)である。このエディトリアルが、普通を特別なものにしている。
 
また、書くということ、取材をするということがすでに「普通」ではない。これは、観測者問題的な矛盾を持つ。
 
このことを中島らもは当然気がついただろうが、その後の中島らもの仕事ぶり、たとえばワシが川遊のポスターで使ったパロディの元ネタである(パロディであることに気がついた人はいないと思うが)としまえんの「史上最低の遊園地」なんてものの原点は、このあたりの気づきにあるんじゃないかと考える。
 
 
普通であることへの恐怖、あるいはコンプレックスといってもいいが、これは誰の心にもあるもので、人が群れをつくる動物であるから、しかたがないものだ。
 
ある意味これは承認欲求が得られないことへの恐怖。群れから弾かれる不安を元にしている。
 
群れの一員であるためには、群れにとって自分は特別な存在でなければならない。「あなたがいてくれないと困るんだ」と思ってもらえると群れから弾かれるという不安は少なくなるのだ。
 
だから、人はデフォルトで人の役に立とうとする。正義の正体である。
 
しかし、その不安や恐怖が限度を超えると、「英雄依存」とでもいう異常な渇望が沸く。
 
「私は特別だし、特別な人と知り合いだし、特別なことをしてるし、特別な待遇受けてるし」
とにかくスペシャルな自分であろうと思うし、思い込もうとする。スペシャルに憑依、依存している状態だ。
 
依存症とそうでない人の区別は、非合法なものを除いては、日常の生活ができているかいないかがそのその線引きになる。
 
酒でもギャンブルでも、依存症の特徴は、優先順位がむちゃくちゃになることだ。
 
本来なら子供の命はパチンコより大事なのに、炎天下の車の中におきざりにしたり、家族の生活費を全額ギャンブルですってしまうなんてことをやってしまう。
 
ちなみに、酒やギャンブルでなくても仕事(らしきもの)でもこれが起こる。仕事(らしきもの)の依存症の人は、平気で仕事(らしきもの)のために本来、大切なものはずのものを差し出す。
 
※(らしきもの)とカッコ付きにしているのは、仕事の定義として金を稼ぐというのがあるから。金を稼いでないことは、本来仕事とは言わない。
 
 
 
 酒やギャンブルの場合は非常に解りやすい。が、仕事依存や英雄依存の場合は、わかりにくい。
 
スロットで「あと1万円入れたら回転が変わるねん」と言うと、なにゆーてんねん!となるが、仕事で「今は準備期間なんで、も少ししたら儲かるねん」と言われれば、あーそうなの、となる。
 
英雄依存の場合は、さらに周りが誉めたたえるから、さらにわかりにくい。「あの人はすげー人だ」とかの虚構がついてまわるから、実は家庭が崩壊してても気がつかない。
 
 
この依存の原型が、編集作業(エディトリアル)によって誰かが作った物語だ。
 
「女やギャンブルや、あらゆる遊びをやりつくした芸人」という英雄譚が、「遊んでない芸人なんてツマンネー」という確証バイアスを作り出す。
 
実際は、芸で金が稼げるから遊んでるわけで、芸のこやしなんだということは「絶対的な法則」ではない。こーすれば、こーなるは、物語をつくる上での誰かの編集なのだ。
 
こーしても、こーならない、あーしても、こーならない、そんなことは、いくらでもある。
 
「こーなりたい」と、「こー思われたい」は、似ているようでかなり違うんじゃなかろうか?
(2016/8/13)