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西鶴アーカイブ

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出来ないことで繋がる

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(2012/5/14)

昼飯を買いに玄関を出ると白いゴールデンが散歩にいくところに出くわした。

黄色い真新しそうな犬用のカッパを着ているのだが、何か気にくわないらしくて、電柱のところで立ち止まって動かない。

若い犬ではなさそうで、もうかなりの老犬のようでもある。
飼い主は、リードを引っ張るでも声をかけるでもなく、ただその犬が動く気になるのを待っているようだ。

ゴールデンはワシの方をチラリと見たが、またすぐストライキを起こすかのように不動の姿勢に戻った。

ウチのウォーフなんかも雨が降ると足がぬれるのが嫌らしく、散歩にいってももう帰ると立ち往生することがよくあるが、そんな光景を思い浮かべながら歩いていると気が付くと涙目になっていた。

何ら悲しいことがあるわけでもないのだが、よく解らないが胸がつまったのだ。

涙目で買い物をするのも変だと思われるからいったん家に引き返した。その時にはもうゴールデンの姿はなく、ワシの涙目も収まっていたので、ふたたび昼飯を買いにいったのだが、う~む、ワシは何をしているんだろうか?

人も犬もそうであるが、産まれた直後は泣く。

これは産まれてきたことを悲しんでいるわけでも、また産まれてきたことを喜んでいるのでもない。

ただ泣くということで母親に自分の存在をしらしめるのだ。この泣き声で母親は子供の存在を理解し、そして乳を与え体温で温める。だから「泣き声」というよりは「鳴き声」と書く方が正確だ。

昼飯を買ってきて台所で食べていると、ウォーフやエースやヤクザ犬がわらわらとやってきて鼻をひくひくさせる。

最近はウォーフもエースも年をとって多少ワガママになってきている。

まぁ、それでもいいかとワシが甘やかせているのもあるのだろうが、こいつらはもう充分お利口さんの犬で今までいてくれたから、多少わがままでもかまわない。

犬はワシに何かを与えようなんてことは思わない。

ただ自分が出来ないことをワシに要求する。
腹が減ると飯!
うんこはしたくなると散歩!
眠くなると布団!

そんなふうな要求をしながら日常を生きている。

しかし、ワシはそれを邪魔くさいなと思いながらも、決して怠ることもなく、時には豪華な手作りごはん、時には邪魔くさくなってドッグフードをざらざらやる。

時には長いながい散歩にいき、時には短い散歩で誤魔化したりもする。

が、ワシは犬に何かを求めることはない。

時々、犬の腹に顔を突っ込み犬の体温を感じながら眠りにつくだけで充分こいつらの存在することはワシには価値あることなのだ。

きれいな言葉で言ってしまえば、「そこにいるだけでいい」のである。

そしてそこにいるということだけで、今日のように冷たい雨がふる感傷的な日には胸がつまってくるのだ。

以前、ここでこう書いたことがある。
「自分でなにか社会にできることを探すのではなく、自分が出来ないことを社会に要求する」べきではないのか?

「市場トレードするモノは、自分にしかできないモノではなく、自分にできないモノ、つまりマイナスのトレードができる市場が必要なのではないのか?」

これが何をどうすればいいのかは自分でもよくわからないのだが、最近では確信としてそう信じる。

人はね、自分にしかできないことで世界にアクセスするんじゃなくて、自分に出来ないこと、足りないこと、そういったものを要求することで世界にアクセスすべきなんだよ。絶対にそうだ。

「助けてあげるよ」的なアクセスではなくて、「助けてください」なんだ。

赤ん坊がはじめて世界にアクセスする時の鳴き声のように、助けてください、一人では生きていけませんと堂々と鳴き声を出して世界にアクセスすべきなんだ。

個の足りない部分を補完しあうマイナスベースの社会。

余っているものを市場に出すのではなくて、足りないもの欲しいものの情報があふれる市場。

何かよく解らないけど、そういったマイナスがベースなら人はもっと生きやすくなるん自立じゃねーだろうか?

自立をしいいる社会なんて、誰も社会無くして自立なんてできねーよ。