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西鶴アーカイブ

いろんなところに書いてきた文章のアーカイブ

頭の中にあるものを外に出す

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(2015/4/10)
 
iPadがね、16GBなのよ。で、アイポンが64GBもある。逆のほうがいいんだが、こーなってしまったんでしょうがない。とりあえず、家のサーバーにデータは放り込むようにしてるけど、それでもなんでもかんでもデータにして放り込むんで容量がすぐにイッパイになる。

大事といえば大事。けど、なくなっても別にあきらめはつく。そんなデータの断片。
時々、ひっくり返して見ると思わぬインスピレーションがわくこともある。

考えてみたらデータだけでなく、実生活でもこんな断片に囲まれている。
撮影に使った造花や小道具。仕事の資料。いろんなサンプル。いろんな店のフライヤーや小冊子。特集の組み方やレイアウトがきれいだというだけで買った雑誌。

そんな断片が、合体してトランスフォームして、融合して仕事に役立つわけだけど、断片だけでは意味はなさない。

某アートディレクターは、シンプルで何もない部屋で仕事をするのをいろんな雑誌で自慢しているが、シンプル イズ ベストは結果がそうあるべきだという考えかただ。結果、つまりプロダクトアウトされた商品やデザインや企画が、シンプルであれと言ってるわけで、その「過程」はいろんな断片が溢れかえることになる。

某氏が何もない部屋をことさらアピールしたり、カバンを持たずに打ち合わせするのは、スティーブジョブスの影響だと思うが、ジョブズも何もないところからクリエィティブしていたわけではない。アップルコンピュータも、ごちゃごちゃした混沌のガレージから産声をあげたのだ。

デザインの語源は、de(削る)sign(構築する)だが、ようするに石を削ることでそこに神や仏の姿がでてきたということらしい。考えればあたりまえのことだ。何も無いとこからは、何もでてこない。
捨てることで浮き上がることがクリエィションということなのは、物理的にもそのとおりなのだ。混沌から選択し、余分を削り、捨てていくことで浮き上がっていった。

ところが、自称のアーティストの人の中には、断片が積み重なって整理されていなくて混沌としたままの人がいる。そういう人のつくりだすものは、削るというより、足して足して足しまくるようなものが多い。

ワシはこれをスキゾフレー二型と呼んでいるが、断片と断片が整理されなくてただ繋がっていくわけで、なんとなく生理的にいやーな感じがしてしまう。ごちゃごちゃしてるというだけでなく、気持ちわりー。

人の頭の中はふだんこうなっている。脈絡もない断片が、よせて、くだけて、ひいていく波のようにうごめいている。

そこに意志、あるいは意図を介入させることで断片の中から余分なものを捨てさり、そこに意味のあるものが浮き上がってくる。

意志や意図がない断片、はやいはなしそれはゴミだ。ゴミとアートの違いは何か知らんし、その定義に興味はまったく無いが、ゴミには商業的に価値がつかないというのはいえると思う。

けど、不思議なものである方法を使えばこの整理されていないゴミの断片もアート的な様相を見せ始める。この図は実験的に書いたものだが、これは書いた図の部分ではなく、書いてない空間のほうが意味を持つという、なんか反面教師的なクリエイションになっているわけ。

変なたとえだが、ウザい人がいて、その人が帰ったらその場が明るくなるという、そこに「居る」ことではなくて、「居ない」ことで存在がアピールできているみたいなそんなパラドックス的なかんじ。

この作業をあえてやっている人はそれで食っていけてるが、自称の人はそうではない場合が多い。
その場合は誰かが意図をつけてやらんと価値がでないわけで、結局それは独り立ちできていないということにもなる。

イラストのほうは、混沌がいっぱいになって身動きとれない場合の例。外に全てだして、いれなおすということをしないと混乱するばかりだし、パズルのようになる。「余裕」っていうのは、このバッファ、つまり外にだしておけるバックヤードのあるなしのことだ。
 


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