グロースハック〜ユニークな存在〜
(2016/3/9)
日本の戦後を支えたのは大量生産の工場。世界のものづくりの現場として、日本には多くの工場ができた。
工場による大量生産では人は機械のように流れ作業のパーツになる必要がある。
ベルトコンベアから流れてくる仕事を同じ手順で片付けていく。 機械の流れを止めないように。黙々と。
ベルトコンベアを停止させるボタンは手の届くところにあるが、これを押すには勇気が必要だ。
なぜなら、そのボタンを押すことで、多くの同僚の溜息を聴くことになるからだ。
なにやってんだよ。さっさと今日のノルマを終わらせようぜ。疲れてるんなら帰れよ。迷惑かけんなよ。
完全にシステムに組み込まれた個人は、流れを停めてはならない。
機械のように正確に同じ仕事を延々と。
だからそこに求められるのは、個性ではない。
決められた手順をいかにこなすか。
そいつが風邪で休んだからといって工場を停めるわけにはいかない。スペアが常にいること。誰にでもできること。むしろ個性はそこでは必要ないばかりか、予測不可能のものとして扱われる。
ここでは、人は取り換え可能なものでなければならない。
※ちなみにトヨタのカイゼンは日本語そのまま「kaizen」として世界で有名だが、この機械のパーツに個性を持ち込んだのがカイゼンだ。パーツでありながら常に全体を考え、手順を改造していく。いわば生きた機械。そのことでシステムは有機体のように常に変化してゆくというところが、生産現場の効率化を加速させらた。
この没個性化は学校の教育にも影響を与えている。
工場勤務により、中流の生活を確保できると信じられていた時代は、取り換えのきくパーツとしての教育に重点が置かれる。
そこからはみ出した者は、教育の現場には居場所がなくなり、どこか別のコミュニティに身を寄せざるを得なくなる。
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こういったものは明文化されずとも、社会の中に なんとなく記憶されている。ドーキンス(だったかな?)は、このことを文化的ミームという言い方をしている。
この前のカキコでワシは「機械が人にとってかわる」という未来を書いた。
今は戦後のような巨大工場は日本からは消えていったが、これがロボットなら工場には非常に都合がいい。大量に人間を抱え、そのメンタルまで管理する労力と費用から解放され、少人数のエンジニアと管理者で運営できるからだ。
文化的ミームは、没個性から工夫ができるエンジニアや管理者の養成へとゆるやかに変化していった。とにかく頭がよくて知識が豊富な人間。それが求められた。
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さて、これからの未来はどうなのか?
これは大前研一が言う「ユニークな存在」というのが重要になってくる。
ユニークとは、面白いという意味よりは個性的と訳した方がピッタリくる。
つまり、工場の時代に求められた「パーツとして取り換えがきく」のではなく、個人として取り換えが効かない唯一無二の存在だ。
考え方も皆と同じよりも、ナナメ上からの提案ができる存在。どんな問題もユニークな方法で解決する存在。
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もともと、人はこのようなユニークな存在だった。兄弟が同じ環境で育ち、同じ遺伝子を持つにも関わらず、性格が違うのもユニークさは、多様な未来を築くからだ。
これは人に限らず、生物という括りを持ってしてもそうである。多様性という戦略。それは切り捨てるというのではなく、アーカイブするという戦略でもある。
現にワシらの体内には、いまだに尻尾の残りが存在している。