turuya

西鶴アーカイブ

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アドリブ劇

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(2016/3/14)
 
この前からワシはこのfacebookや、しゃべくりで「ものがたり」ってことを言いまくってるけど、なんか人って社会という集団の中で生きていくのに、どこか「演じてる」とこがあるんじゃねーのと思ってるわけ。

それは、いいわるいは別にして、うまく演じれるかどうかというのは、即、うまく生き延びているか否かと直結してるのは間違いない事実だ。

うまく社長を演じているか、うまく経営者を演じているか、うまく営業マンを演じているか、うまくフリーランサーを演じているか、ワシの場合はうまく「西鶴」を演じているか。

社会の中で役割を演じるのって、ストーリーも自分で考え、セリフを自分で考え、そしてその結末も自分でかんがえなきゃいけない。

そんな風に思って「ものがたり」というキーワードをワシはあちこちで連発しているのだった。

だもんだから、インプロって言うんですか?全部アドリブの劇ってものに興味がすごーくあつて、さらに前にも書いたけど平田オリザっていう劇作家?が書いた新書「わかりあえないことから」を読んで、演じるということは、コミュニケーションにも非常に重要なキーワドだと感じていたわけよ。

ちなみにこの平田オリザって人は、全国の小学校とかで演劇の教室みたいなことをやってるらしいが、本よんだらオモロイからおススメ。特に教育関係者や会社の研修なんかの担当はぜひ読め。

で、今回晴れてようーやく北原雅樹主宰の劇団「即劇遊団あドリ部」の公演「アドベンチャーを生きよう」を見てきた。

実はね、正直に言っちゃうとあんまし期待はしてなかった。

こーゆーのって、すぐに「身内ネタ」に逃げちゃうとこがある。テレビでもそうやん。なんか身内のネタで笑いとって、それでオケみたいなとこが特に関西のノリでは定番であって、今回もそーなっちゃったら、残念だなーというあわば期待してないことを前提に見に行ったわけ。

期待してなかったら、残念感があっても損した気にはならない。

ところが!ワシの期待はみごとに裏切られた。変な言い回しだけど、残念感はゼロ!

役者さんもすげーけど、照明やピアノのまゆげちゃんもアドリブ。アドリブで入れる音やアドリブで入れる照明の色も演じることに影響与えるやん。

ワシ風の言い回ししたら、「そこに在るものから、いかにものがたりを作り上げていくか、あるいはそこに無いものから、いかにものがたりを関連させていくか」なんだわ。

これって公演のタイトルどおり「アドベンチャー」で、公演のタイトルどおり「生きよう」なんだわ。

ライブって訳すと「生きる」になる。ライブってレイブラウンの言葉を借りると、「二度ととりもどすことのできない刹那」となる。今、ここ、それがライブで生きるということ。

そういう意味で演じるとは、誰かに成りきるということよりも、自分に成りきることじゃね?

つまり、自分探しなんてしてねーで、自分を演じちゃえば、そこに自分が立ち上がってくるってことなんじゃね?

ワシの心の恋人であるスタートレックのジェイウェイン艦長はワシにこういった。

「艦長になる心構え?あら、そんなものないわよ。艦長になれば後からついてくるわ。覚悟があって艦長になるんじゃないのよ、艦長になるから覚悟ができるの」