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西鶴アーカイブ

いろんなところに書いてきた文章のアーカイブ

空間認知

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(2015/11/28)
人の空間認知の本は、思考に思わぬ副産物を与えてくれた。

たとえば、「人は、空間があるとそこを埋めたくなる」という一説。

そう言われてみればたしかにそうで、真っ白なスケッチブックを目の前にすると、何か書きたくなる。本箱に開いてる空間があれば、とくに意味もなく古いiPhoneを時計代わりにして置いてみたくなる。スケジュール帳にに空白はあると、どうでもいい予定を入れてみたくなる。

なんで人は空間を埋めたがるのか?本ではそこんとこには言及されていないんだが、その答えはアカシア(集合的無意識)にある。


なにもない空間は、広い草原を連想させるのだ。
だから落ち着かない。目を遮る障害物は、自分を守ってくれる城壁にもなる。

ショッピングモールのフードコートがいまいち落ち着かないのもこのためで、太古のワシらの先祖は、広い空間で飯なんて食っていなかった。

ランチをたべてるつもりだが、ランチにされちゃった、なんてしゃれにもならないことが起きる可能性が高いからだ。

だから何もない空間には何かで埋めたくなる。身を隠せる場所、狭い空間を人や動物は好む。

この傾向は、前述したように紙の上にも表れるし、また行動にも影響を与える。

なにもしない時間。これも空白だ。
ただ、じっとしている。すると人は寝るか、なにかどうでもいいことをしたがる。ほとんど無意識下の行動動機だが、動いていないとどこか不安になるというのがその根底にある。。

座禅をしていてやたらわき上がるビジョンもそう。なにも考えていないというのはある種の恐怖で不安になる。だから空白を埋めるように雑念が沸く。
この理屈が解ってしまえば、座禅で言うところの「無」というものが何か体感として解ってくる。





何十年か前に、ある会で夢の話をしたことがある。皆、店を世界的な規模で展開したいとか、そんな大きなことを語っていて、ワシはすげーなと思った。

なんでかっていうと、そんな夢はワシにはなにもなかったからだ。無理矢理考えてみようとしたが、何も浮かばない。テーブルごとに発表ということだったので何もないですというのも場を白けさせるので、「宝くじを当てる」とか適当なことを言った。

講師の人には「まさに夢ですね」といって笑われたが、その会にいた人で誰もそのときの夢を実現させている人はいないから、ワシだけではなく皆、「まさしく夢を語っていた」のだ。

最近になって思うのだが、どうやらこの会での夢っていうのは「いきつこうとする場所」のことだったんだろうと思う。けれど、それを「夢」と表現するからそこへ至る道を皆考えられなかったんじゃないだろうか?

「果報は寝て待て」というが、寝てれば起きたら枕元に現金が積んであったという意味ではない。「やるべきことをやったあとは、あとは結果を待つのみ」という意味だ。この言葉は仏教の教えが民間の話になって定着したものらしいが、因をつくらねば果はないということを表現している。寝てたら因がないので果もやってこない。


いきつく場所にいきつくためには、道が必要で、道の先にいきつく場所がある。
これは、とくに書くほどのこともないぐらいのリアリズムで、人ならずとも生物は皆知っていることだったりする。

人が夢を語るとき、それがいきつく場所だと思っている人は夢とは言わない。計画やら行動やらがあって、おのずとそこにたどり着く。

この夢の定義があいまいなのは、子どもの頃に学校で将来の夢を…なんてことを作文か何かで書かされたからだと思う。子どもには、そこに至る道は考えられないから、本当に夢なんだろう。



夢を語る人は、そこにいたる道に空間があることを本能的に察知する。広大な海の、にぽつんと浮かぶ夢の国。そんなイメージだ。そこに至る船も飛行機もなく、また用意もしていない。

ただっぴろい空間を人は埋めたくなる。禅のときの雑念にも似たものだ。

「船がないから漕ぎ出せない」
「漕ぎ出すためには食料がいる」
「一人じゃ無理だ」
空間はそんな雑念で埋め尽くされる。これを言い訳という。



時々、仕事でも夢を語る人に出会う。
熱く語ってくれるのだが、申し訳ないがあくびが出る。興味ねー。

こういう人の話がなぜつまらないかというと、結果しか書いていない小説だからだ。
冒険者は、冒険を終えお姫様とお城で仲良く暮らしましたと熱く語られても、それがどーしたというもんだ。

実はこういう社長というのも結構多い。
ワシは部外者だからあくびでいいが、働いてる人は「またか」とあきれる。

それ、あーたの夢でしょということになる。

この傾向は男性に多い。それはアカシアに刻まれた記憶からきている。

太古の昔にそういった役割分担ができあがっていて、それがミームとしてワシらの頭に組み込まれている。

女性の場合は生物的に「今」にフォーカスした思考をする。夢を語っていても、子育てはできないからだ。

男性の場合は、あの山の向こうにでかい獲物がいて、ワシら半年は食えるぞという夢を追いかけようとする。

いきつく場所には道がある。このマッピングができていれば雑念は沸かない。道を探すこともしない場合は空間ができる。それを不安に思うからそこを「できない理由」で埋めようとする。

子どもは別として、えーとしこいた大人が夢を語る危険はここにあるとワシは考える。

ワシは夢がない。夢がないから、空白は産まれない。だから雑念もない。
たとえば毎日ここで書いてる文章と漫画。とくに何か「果」を求めているわけではない。
けれど毎日の「因」は確実に積み上がっている。

実際に人前でのしゃべくり仕事にネタはつきない。形態を変えることでこのネタという資産はいかようにも変化する。

人はゴム動力で動く車のようなものだと思う。
エネルギー満タン!どこにだっていけるぜ!という状態がテンションがかかるということだ。そのためには毎日ゴムを巻いておく必要がある。

お金のピラミッドの話で書いた、最底辺の要素「ミッション」「コミットメント」「プリンシプル」。このバランスを崩せば、エネルギーは形態を変える。解りやすくいうと解放される。どのような形態に変えるかは意図することでコントロールできる。

このあたりは、どっかでまた喋くりしよーと思う。