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西鶴アーカイブ

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ドリームキラー

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(2015/3/2)
ウォーフの癌のとき、セカンドオピニオンをつけたほうがいいと、アドバイスされたことがある。
西田さんも、どうする?と聞いてきたので「僕はつけたくない」と答えた。
 
こういう時に黙って頷いてくれるのはありがたい。知り合ってから、どれぐらいたつか忘れたし、憶えておく気もないが、ワシは、屁理屈や考え方とかを何回も何回も西田さんに今まで語ってきたんだろう。だから一瞬で解ってくれる。
 
近くにいたらややこしいが(いや、具体的にややこしいのだ、毎月サイフ落としたと大騒ぎだし…)、少し離れたところにはいてほしい理解者だ。
 
「なんで?」って言われたり、反対されたらワシは理屈っぽいことを延々と喋らなければならなかったとこだ。意見を交じ合わせるときには、もちろんそれは必要だが、西田さんはそういうときにワシが徹底的に調べたり考えたりして決断することを知っている。
 
エースの時もそうで、今かかってる医者は一軒だけで、全面的に任せているのではないが基本的な治療方針では同意を得ている。他の医者だと後足切除という選択も視野にいれただろう。たとえ、寿命が短くなろうが、歩ける状態ではいてほしい。ライフオブクオリティとかいうやつだ。
 
セカンドオピニオンには特に反対ではない。むしろ、いろんな考えを考慮して自分で決断すべきだと思っている。
 
だけど、ワシは仕事で時々このセカンドオピニオン的なことでイライラすることがあるのも事実だ。
 
今ではいいお客さんだが、某企業のロゴや、それにまつわるいろんなものを引き受けた時も、どーもシックリこない。一度オッケーなものがひっくり返るなと思っていたら、元々そこの仕事を受けていたデザイン屋が横からチャチャを入れて来ていた。
 
もちろん、それは構わない。だが、この人はワシの話を直接聞いていない。ただ、値段が高いとか、そういうことをクライアントの耳元で告げ口しているだけなのだった。
 
結局、その人と合わせてもらうことになったのだが、マーケティングとか戦略とかの勉強はほとんどしてない人であることが判明し、クライアントにどうする?と聞くと「すいませんでした」と、全面的にワシに任せてもらえることになった。
 
ここで問題なのはセカンドオピニオンではなく、そこに「対話」がないことだ。
セカンドオピニオンの考えや態度によっては、足をひっぱることになる。一緒にその場で方針について対話し、決めていくという作業がないことが問題を産んでいる。
 
心理学者アドラーの提唱するのも、このことだ。アドラーは「課題の分離」として、このように言う。
 
水が飲みたい馬を水のある場所に連れていくことは可能だが、水を飲ませることはできない。
 
なぜ、馬なのかは正直よく解らないが、なんか文化的な違いがあるんだろう。つまりは、課題を抱えるものが自ら「気づく」ことによってしか課題の解決はできない、あるいはそうでなければ「コントロール」になってしまうということを言っている。
 
ところが、世の中には凄い言葉が存在する。「ドリームキラー」という言葉だ。
 
ドリームキラー、これは言葉そのままの意味で「夢を壊す存在」足をひっぱる人のことだ。
この言葉の憑依力は、かなり強力なのでワシは絶対に使わない言葉なのだが、前に会議のやり方でワシはこんなことをある企業で言った。
 
「いや、企画を決めるときはそれが出来るか出来ないかではなくて、やるのかやらないのかを決めないと前に進まんでしょ。やるなら、それに伴うリスクを一つづつ潰していく。それが仕事というもんでしょ」
 
その時、担当の者が「ああ、ドリームキラーは無視したほうがいいですよね」と言ったのだ。
 
ワシは慌てて、それを訂正した。まるで怒るように訂正した。
 
「いや、違うって。無視したらダメだ。それを言い出したら、戦争になる。あくまで対話していかないと会社がバラバラになる。そうじゃないって」
 
ワシは非常に焦った。こんなふうに勘違いされるとは思わなかったからだ。また、この人はどこでドリームキラーという言葉を見つけてきたんだろうか?
 
高額な商品を買う場合、この言葉はよく使われる。主にクロージングで使われる言葉だ。
 
「この商品を買ったことを親や友達に言ったらどういう反応がきます?きっと止めておけって言うでしょう。なぜなら、親や友人はこの価値を知らないからです。あなたは充分大人で自分の意思で買うと決めたんでしょう。その意志を奪うのはあなたをコントロールしようとしているドリームキラーなんですよ。私はそんな人を軽蔑してるし、そんな人の意見で自分で決めた決断をひるがえす人も軽蔑しますね」
 
人は誰でも人に嫌われたくないと思っている。その心理とドリームキラーという言葉を合わせて使えば、誰でもがコントロールされてしまう。こうやって世界に思想同士、あるいは宗教同士の戦争が始まったのだ。
 
誰もが自分の信じる平和を押し付ける。それに反対するものはすべて敵だ。平和を、未来を、夢を、奪おうとする敵だ。
 
仮想敵国をつくることによって人は「内部においてのみ」結束は固まる。かの大国は今もその方法論を実践しているではないか。
 
ワシの言葉が、それと同義に誤解されていることにワシはショックを受け、必死でそれを訂正しようとしたのだ。
 
アドラーは、こうも言う。
対人関係を避けていたら、そこに嫌いや苦手がでてくる。アバタもエクボは、エクボもアバタになっていく。嫌いや苦手ではなく、そうでないと困るからだ。これを「人生の嘘」という。
 
多くの人たちがクラスター化してゆき、互いが互いにドリームキラーだと言う。私の正義、私の平和の足をひっぱると言う。これは対個人でもあり、対組織、対国の話でもある。そこには、望む平和は訪れることはない。その先にあるのは永遠の戦いの世界だ。
 
アドラーの言う「嫌われる勇気」とは、対話する勇気のことであり、互いが違うのだと認めた上で「あなた」と「わたし」で作られる、あたらしい価値観、それをつくりあげるためのマインドセットのことでもある。
 
 
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