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西鶴アーカイブ

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意味をつけるのは自分なのにゃーん

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(2015/3/1)
 
灯油を運ぶ時に、なんか変なかたちで力入れて、腰がちとヤバイ。
 
まあ、ワシも「えーとし」なんで、最近は1日が非常に貴重な気がしてるんだが、同じ年の奴に聞いてもそんな感じでもなさそうだ。
 
たぶん、わんこが次々と年老いて逝っちゃうのを見てるからだと思う。
 
けど、「やらなければならないこと」や「また今度」から、「やりたいこと」や、「今度ではなく今」を大事にしようと思うことが多くなった。
 
50年って本当に短い。たぶん一生もそうだ。
 
こうゆうのを「死生観」というらしい。この前から、その手の本にすぐに手がいく。チベット死者の書からはじまり、ヘミシング系のものや、ボーズが書いたもの、ガン宣告を受けた人が書いたもの。憑依した宇宙人が語るものや、特攻した人の手記。ジャンルを超えて読み散らかしている。
 
誰の本か忘れたが、その人はガン宣告を受けてあわてまくっていろんな本を読んだりいろんな人に話を聞いたりしたものがあって、そんな中でこんな記述をしている。うろ覚えなんで正確ではない。
 
「ガンは自分が作り出したものだという考えがある。それを聞いたときに、ずいぶん自分の考え方や生き方がどこか間違っていたんだろうかと悩み考えた」
 
最近はこういった言い方をする人が多い。ガンに限らず、病気や出来事、全てが自分が選んだけっかだという考え方だ。
 
ウォーフがガンの時にそういうことをある人に言われたことがある。その人によると、エースも目が見えてないのは、「飼い主を探している、それは飼い主の愛情が足りないからだ」そうだ。
 
たぶん、ワシが灯油を運ぶ時に腰を痛めたのは「しっかり大地に立てよというお告げ」だと言うだろうし、歯が痛いのは「物事をひとつひとつ噛み締めて消化しなさい」と言うだろう。この手のリーディングなら、ワシでもできる。
 
もちろん、人によっては、ありがたい言葉ではあるかもしれない。
 
が、この言い方だと誤解されるんじゃないかとおもうのだが、どーもそういったことを言ってる本人たちが誤解してるようで、そこに異をとなえると「わかっちゃいない」「あなたには見えない聞こえない感じれない」で弾かれるようで、困ったなあという感じだ。
 
正確にいうなら、「出来事の多くは本来そこに意味はなくて、そこに意味を見出すのは自分の意志だ」というのが正しい。
 
いわばこれはジンセーへの応援であり、たしかにどんな出来事にもそこに意味や価値を見出すことは可能なわけで、それが柔軟性でもあり、多様性でもあり、もっと世間的に言うなら前向きということなわけだが、この辺りが心理学のいうところの「投影」とごっちゃになって、あるいはワザとごっちゃにしているというわけだ。
 
ずーっと前に、どこかのメーリングリストかで、この手のセンセーとやり合ったことがある。いまは、そんな他人事に口を挟むのは、それこそ冒頭に書いたように「今を大事に」と思うから知ったことではない。うぉーふやエースのことを言われた時も無視していた。
 
が、当時はまだ若かった。自分が病気をつくりだすという荒っぽい言説をなぜ人が信じるのかというメカニズムには目がいかなかったのだ。
 
人は、なんでもそこに意味をつけようとする。なぜかというと、意味が解らないまま放っておくことは恐怖や不安を呼び起こすからだ。
 
暗いジャングルで謎のうめき声を聞いたとき、その意味・・・「何が何のためにその声を出しているのか?」・・・が解らないと、もしかしたら自分をとって喰おうとしているものの手の内かもしれない。
 
そんな危機回避から人は理由を求める。その正体を知ろうとする。暗闇に松明を燈そうとする。
 
そこで意味が解り、不安や恐れが少なくなるのはかまわないが、逆にそれゆえに悩む場合もでてくるのではないか?じゃ、どうしたらいいの?自分をかえるの?どうやって?
 
悩みや不安、それは簡単に人をコントロールしてしまう。コントロールする方は、自分がコントロールしていることに気がついてない場合も多くて、それが自分の「影響力」だと勘違いして、いい気持ちになってしまっている。
 
これはワシの定義ではレイプになる。そこに悪意があるとか無いとかは関係ない。人の意志を奪いコントロールするのは、殺人も痴漢も同じで、それは同等の罪だとさえ思う。
 
ワシは言葉を使うが、このことには常に気を配ろうと思っている。ある人はワシのデザインを見て、「作為がない」と言う。この人の言う作為とは、コントロールする意志のことだ。
 
デザインというノンバーバルな言語も含めて、言葉は人をコントロールできる。ある程度の営業の手法を勉強した人には、その手法は思い当たることが多いだろう。が、あえて使わない。それはデザイン屋としてではなく、人としてやってはいけないことだと思っている。
 
アドラーの言うところの本質はここなのだ。「嫌われる勇気」の中で、先生は生徒にいった。「わたしはあなたの友人だ」「え!こんな私のことをあなたは友人というのですか」
 
先生でも師匠でもなく、友人というフラットな立場で、対話することで互いに気がついてゆく。これは、コントロールではなく「気づく」ということだ。
 
人は人をコントロールしてはいけない、その人のジンセーは、その人が主導権をもつその人のものだからだ。
 
 
 
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