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西鶴アーカイブ

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そもそもそももそもそもそそも

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(2016/5/5)
 
この前、某社長とのセッションで仕事で一番必要なものは何か?という話になった。
 
ワシの場合は、「その人や会社や店や商品が好きになること」だと言った。
逆に言うと嫌いになると仕事ができない。いくらギャラがよくても、もー無理。
 
「だからね、ワシってすぐにオネーチャン好きになっちゃうやーん。これって職業病みたいなもんなのよ。すぐに好きになれるところを探しちゃうわけー」
 
まあ、半分ネタみたいになってるいつもの軽口なのだが、その社長は真剣な顔でこう言った。
 
「けど、好きになるのも嫌いになるのも、なんかの条件とか理由みたいなもんがあるんじゃないの?」
 
その時は、ハイボールで酔ってたんで真剣に考えるのがじゃやまくさくて、んまぁ、そうかも・・・って言ったんだが、どーも違うような気がする。
 
たぶんね、好きになるのはデフォルト。人は人が無条件に好きなんだと思う。
 
無条件で好きって感情があって、その後で好きな条件や、好きな理由を無理やりにでも探すんじゃないだろうか。(ワシの場合は、これが仕事になる)
 
反対に嫌いになるときは、そこには条件や理由があるんじゃないかと。
 
つまり、「好き」→「なんらかの自分に不利益な条件や理由」→嫌い と。
 
で、これは人や会社や商品という外部環境だけではなくて、自分の内部にも言えることじゃないかと思った。
誰でも自分が「好き=大切にする」というのがデフォルト。だから生きようとする。いくら絶望していても自分で心臓止めることできない。
 
ところが、中にはデフォルトであらゆるものが嫌いな奴がいたりする。けど、自分の身体はそんなふうに思ってないから、生きてるわけでここにダブルバインドが生じる。ようするに条件や理由なんてものは、たんなる方便だということだ。
 
前にも書いたが、ワシがガキんちょの頃、トイレ掃除をさぼってその言い訳に「掃除しても明日になれば汚れる、そこに掃除する意味なんてあるのか」と言ったら、それを聞いた先生が「お前いつか死ぬのになんで今生きてるねん」と返された。同じことだわ。
 
この問答をしてから、もう30年以上たつ。30年考えてこの問答が「道(タオ)」だと最近よーやく解ってきた。
 
言葉があるから、思いが産まれるんではなくて、思いがあるから言葉が産まれる。
言葉があって思いが産まれるのが、ワシがいつも言う「言葉の憑依」ってやつだ。
 
たとえば、何か行動をしようとするとき、そこに「意味」をつけようとする。
その意味が思いを超えて肥大化すると、憑依が起きる。
「人のため、世の中のため」という言葉に憑依されてる人も多いが、憑依は自分の思い関係なしにモチベーションにもなる。
けれど、それは基本的にシャブで頭がいかれた状態なのでじわじわと身体を蝕む。
 
こゆヒトは、外から見ると一見なにか吹っ切れたみたいに見えたり元気にも見えるが、地に足がついてないからけっこうヤバい。
 
個人だけでなく、組織でも最近はこの傾向に陥ってるところをよく見る。だいたい社会貢献という言葉に憑依されているケースが多いけど、まるで自分の頭をかじらせるアンパンマンみたいになってる。アンパンマンジャムおじさんが変わりの頭をちゃんとつくってくれてるから、アンパンマンでいられるわけ。
 
※言葉の属性はスピリット。スピリットの性質は、拡散と憑依。目的は、形を得ること。スピリットは身体域を超えてはならない。