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西鶴アーカイブ

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吼える人たち

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(2016/5/8)
本屋に行ったらなんか視線を感じる。
ふとその方向をみたら、幻冬舎見城徹「たったひとりの熱狂」の表紙が睨んでいた。
 
見城君が自分とこの事務所で撮影したらしい写真が載っている。
誰かに怒っているんだろうか?口をあけて「てめえ!何やってんだよ」というセリフが聞こえてきそうな表情をしている。吼えているという表現がピッタリな写真だ。
 
本の内容は、アマゾンのコピーそのまま貼るとこんな感じ。
 
すべての新しい達成には初めに熱狂が、それも人知れない孤独な熱狂が必ずある。「癒着に染まれ」「野心なんか豚に食われろ」「一撃必殺のキラーカードをつかめ」「人たらしになるな。『人さらい』になれ」「結果が出ない努力に意味はない」など、出版界の革命児・見城徹による、仕事に熱狂し圧倒的結果を出すための55の言葉を収録
 
クラクラする。最近は、もうこーゆーのはお腹いっぱいだというのが正直なところ。
 
 
とはいえ、ワシも数年前まではこの見城君のように吼えていた。熱狂が人を巻き込み、熱狂が自身の想像するイメージを外界にアウトプットし、熱狂が形にないものを形を与えるんだと信じていた。
 
電話で客に怒鳴る。名のあるコンサルにもケンカを売るようなことをする。仕事なんてたんなる詰将棋だ。時には飛車で刺すこともある。そんな風に思っていた。熱狂とそれをコントロールする戦略、仕事や人生なんてもんは、たんなるRPG。そんな風に思っていた。
 
アマゾンのコピーになる見城君のセリフには、どれも頷けるものがあるし、この本を読んではいないけど、おそらくワシも同じようことを言ってたと思う。
 
 
けど、もーお腹いっぱい。こゆのはつまんない。なんかうまく言えないけど、体質的に受け付けない。
 
たしかに熱狂、ワシの言うところの「テンション、パッション、アクション」は毎日を元気にしてくれるし、勝てる詰将棋がワクワクするのと同じように、トラブルさえクリアすれば宝箱がもらえると思えば楽しくなってくる。
 
ところが最近は、そんなゲームに飽き飽きしてきた。熱狂よりもトラブルよりも、凛と張りつめた冷たい空気の中で静かに過ごす、コーヒーの微妙な味の違いを楽しむように、丁寧に毎日を生きる、そんなことのほうが好きになってきている。
 
これは何だろう?とふと考える。まるで数年前とはまったく逆な感じに自分で戸惑いすら感じる。
 
 
心理学で「ジョハリの窓」というのがある。人の心を「自分が気づいている自分」と「他人が気づいている自分」という2軸にとらえることで4つの層ができあがる。自分も他人も気が付いていない部分は「未知の窓」と呼ばれていて、ここにはあらゆる可能性が詰まっているというのがこの「ジョハリの窓」の説明の定説だ。
 
 
実はワシはこのジョハリの窓理論には懐疑的だ。
自分も他人も気づいていないというのは、実は自分も他人も「気づいていないフリをしている」んではないのかというのがその理由だったりする。
 
それは自分も他人も気づいている領域(これを開放の窓と呼ぶ)、ようするに生きていくために必要な戦略としてのセルフイメージを大きくすれば、当然「未知の領域」は小さくなる。やしきたかじんの嫁の手記を元にした「純愛」のたかじんが、たかじんを演じていたように、誰もが自分を演じているのは間違いない事実だ。
 
それは、「不自然」なことでもなく、また「いけない」ことでもない。それは「術」であって、世の中で生きていくための方便である。開放の窓と未知の窓は、互いに呼応しあう関係で互いに補完しあう関係でもある。
 
見城君にはあったことはないが、だいたいヒトは同じような心の構造を持っている。だから、吼える見城君は、見城君の「術」であると考えられる。仕事をする上で見城徹を演じている。
 
 
この「術」が見えたときワシはお腹がいっぱい状態になってしまう。
 
たとえを変えて、これを会社に置き換えてみる。ワシは仕事で会社案内をつくることが多いが、最近ではたいてい原稿に社会的な貢献についての記述がある。ワシはすきをみてはこの項目をカットしようと試みる。
クサイからだ。
 
もともと会社なんてものは、その業務自体が社会貢献なわけで、そこにあえてプラスされるアピールは、どーもクサイ。それは見城君の熱狂とまた違ったニュアンスはあるが、本質的には同じものではないかと思っている。
 
会社に置き換えるとこのクサさは、体感的にイメージできると思う。
 
 
スピ系講師のプロフィールには、鬱や貧乏や失敗という言葉が例外なく並ぶ。昔はこんなどん底だったけど見事にV字回復しましたってやつ。そのときに掴んだ技を、お教えしましょうというトークにも使われる。
 
これもクサイ。蓋を開けてみたら、V字回復に親の金を使っていたり、誰かに借金してたりと「普通の人」なわけだが、あえてそのあたりは秘密にしている。そんな手品の種明かしをみたら、どいつもこいつもクサく見えてしまう。
 
某活動家のクササもそこにある。彼の文章は常に語尾が「!」で終わっているポジティブ満載でハイテンション。彼は実はワシの事務所に来たことがある。そのときはいつものポジティブでハイテンションな姿とは別に、どよーんとしていた。が、彼はかぶりものをしてポジティブを演じる。「術」である。常に人前で手品を演じてみせる。。
 
 
「熱狂」に光を当てるとそこには「シラケ」という影ができる。
「仲間」に光を当てるとそこには「仲間でない」という影ができる。
 
それがワシの言うところのクラスタ化だ。
 
世界はどんどん細かなクラスタに分解されていっているが、皮肉なことにネットというつながるしくみはそのクラスタ化を加速させていっている。
 
ヒトは基本的にデフォルトで人が好きなわけで、そこには「条件」はない。
が、熱狂や仲間といったものに光が当てられるとそこには条件が産まれる。
 
だから、条件を「演じる」という術がでてくる。
 
クササの正体は、つまるところ「真実味がない」ということだ。できの悪いブランドのパチリもんみたいなフェイク感といえばいいだろうか?
 
 
たしかに「フリ」をすることは今の世の中では重要だし、ワシもフリをして仕事をして生きていってるが、そゆのが最近は鼻につく。特にワンコが死んでから、死生観を考え続けてからどんどん鼻につくようになってきた。
 
つながりっていうのは、マイナスのトレードで成り立つものではないのか?というのも、そのあたりから加速されている。
 
 
「私は嘘しか言いません」と言ってるワシが言うのもなんだが、もー嘘はいいよ。
今このとき、今この場所を最優先に、1000人の人とつながるんじゃなくて、一人ひとりと丁寧に。
スーパーマンじゃなくて、ふつーの人でいいんじゃねと思う。
 
吼えるんじゃなくて、静かに誰とも仲良くなるんでも不仲になるんでもない接点がゼロポイントであればいいんじゃね?