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天使たち

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(2016/5/12)
 
小学校の3年生の時だ。
 
授業中にふと窓の外を見たら、急に視点が「窓の外を眺めている自分」を「窓の外から眺めている」視点に入れ替わった。
 
意味解る?
 
まるで、幽体離脱したように窓の外を眺めている自分を校庭の向こうの正門のところから眺めていたわけ。
 
一瞬の出来事だったんだが、今でもあの時の感覚はリアルに覚えている。
 
それからしばらく、この感覚で遊んでいた。どこでも意識すれば視点が変えられる。
 
あの頃はまだ「幽体離脱」なんて言葉は世の中になくて…あったかもしれんが、そんなに浸透していなかった…ワシの記憶では、少年チャンピオンに連載していたつのだじろうの「恐怖新聞」か、マガジンに連載していた「うしろの百太郎」あたりで、この幽体離脱という言葉が一般的になったんじゃないかと思っている。
 
※もちっとマニアッくなこといえば、同じくつのだじろうの「泣くな10円」っていうギャグ漫画。これ「うしろの百太郎」よりだいぶ前に描かれたものだが、その中の一話に幽体離脱を書いた話があって、ガキの頃これ読んで怖くて寝れんかった。
 
その時、この幽体離脱という言葉を知っていたら、たぶん大騒ぎしていただろうが、当時のワシはなんかよく解らんまま、この感覚をしばらく楽しんでいた。
 
ちなみにこの頃のワシは非常にややこしい環境で暮らしていて、そのストレスが結構あったんだろうか、寝てるときには「アリス症候群」が頻繁に起きていた。
 
で、この話と同じ話をジプリの宮崎監督がナウシカの頃だったかなぁ?に、明石で講演をしたときに喋っていて、ああ同じだと思った。
 
宮崎監督の場合、両親がケンカをしているのを自分の姿も含めて数メートル上空から見下ろすように見ていたとか言っていた。
 
「たぶん、ぼくが思うにこれは魂が抜け出たとかいうオカルトな話ではなくて、つらい現実から逃げるように自分を俯瞰で見ていた心像風景なんじゃないかと…」
 
そんなふうに監督は分析していたのだった。
 
 
それから大人になってから、なんかの本で多重人格について書いてるものを読んだ。
 
嫌な現実で心が壊れてしまわないセーフティとして「自分に起きている出来事をまるで他人に起きている出来事のように感じる」ところから人格の分裂が起きるのではないかというようなことが書かれていた。
 
実際にどんなものかは知らないが、小説や映画や本でその存在を知ったのだが、ワシや宮崎監督が経験したこの視点の移動がもっと進むと、自分の外…つまり眺めている自分…に人格を形成するんじゃないかと思った。
 
だから、実際に視点が移動しているわけでも、もちろん魂が体から抜け出て自分を眺めているのでもなく、あとで記憶として視点が移動したように感じたのだろう。
 
人の認知というのは時としてこういった非現実的な感じ方をするものなのだ。
 
 
身体(脳もふくめて)って、バランスをとろうとして自分の意志とは関係なくいろんなことをする。
 
そのときに起きる都合の悪い現象が「病気」の定義だろうなとボンヤリとは思っていた。
 
たとえば、風邪ひいたときに熱がでるなんていう現象も、熱がでるから治るんだというのは最近ではあまりまえの考え方になってきていると思う。変に薬で熱が上がらないようにするよりも、程度はあるんだろうが熱がでたほうがいいんだろう。
 
とはいえ、熱で頭がやられちゃったらヤバいし、熱が出ていても仕事の納期は待ってくれないので、しかたなく薬で抑えることも致し方ないという事情もある。
 
これって身体内部だけには限らない。
 
ネットのニュースで見出しだけ見たんだが、なんでも空気中のカーボンの量が増えてるんで植物がすげー勢いで成長してるなんていう見出しだった。内容は読んでいないけど、これってナウシカの世界観の設定を彷彿させる話だ。
 
身体も世界も、バランスを崩しそれを立て直す、その繰り返しで進化する。歩く行為もバランスを崩し、こけないように立て直す。スクラップビルドの繰り返しというものが時間の中に組み込み済なんだと思える。
エントロピーなんてのは、常にアップデートをするためのしくみなんじゃないだろうか?
 
 
意識っていうのは身体内部で起きている現象を眺めている、あるいは意味づけしているものだ。
 
早い話、「いいわけ」が意識だといってもいいぐらいにワシらはいろんなことに意味づけしょうとする。このことは最近のエントリー「そもそもそもそも」で書いた。
 
アクセスバーズという謎の技があるが、これは意識が産み出す言い訳、現象と言語のリンクを一時的に無効にするもんだというのがワシの解釈だが、その結果としてたとえばダイエットに成功するとか、仕事がうまくいくとか、ニンゲン関係がスムーズにいくなどの副産物が産まれる。
 
ワシの場合は、ここに書いてるような屁理屈が約1か月出てこなかったんで、ちょっとヤバい効果だったりするが、この意識という言い訳の特徴が出ていて面白い。
 
 
多重人格が、「嫌な現実で心が壊れてしまわないセーフティとして発動」するのだとしたら、日常の生活に支障がでない範囲でワシらは皆、多少は多重人格性を持っている。
 
仕事のときの顔、親しい友人といるときの顔、家族といるときの顔。これらは交流分析でしっかりカテゴライズされていたりするものや、NLPなんかでカテゴライズされているものと符合する。
 
 
それらは、生きていくための「方便」だ。
たとえば、前にワシが書いた「世界一のストリッパーのはなし」(いつ書いたか忘れた)も、そうで、「意味づけを変えることでその職業は神から与えられた天命にもなりうる」わけだ。
 
つまり、うまい「言い訳」は人生におけるモチベーションになる。
 
世の中の多くのいわゆる「成功者」はこの言い訳が実にうまい。うまく自分を騙すことができたやつは、今の世の中のゲームに勝利するという単純な話だったりする。
 
 
が、ここにちょっとした落とし穴がある。風邪をひいたときに出る熱を受け入れないとバランスが崩れたままになるような落とし穴。
 
多重な人格のどこかに自分を移行させ、バランスを崩し、それをまた統合させることで気づきという進化がおきるのがスタンダードなのだが、バランスを崩したままだとその人格に飲み込まれる。
 
いわゆる「どこかイタイ」人っていうのはこの状態じゃないだろうか?
 
そういった人は、自分のつくりあげた人格を通して世界を見ているので一見エネルギッシュでアクティブに見えるが、どこか独りよがりですべてを自分の解釈でジャッジする。
 
いわば、双極性障害(むかしは躁うつ病と言っていた)の躁の部分が独り歩きして全人格になったみたいなものだ。そこにバランスを戻すという「気づき」はなく、切り立った崖を歓声をあげながら突っ走るような行動を起こす。
 
赤の他人として見ている分にはオモロイが、この人とかかわるとそのハイテンションに振り回されることになる。
 
世の中の多くの成功者は、このコントロールをうまくこなしているはずで、ワシの知るコンサルの人は事業が成功しているのにいつもワシにネガティブな相談をしに来ている。
これってバランスを崩し、立ち上がるときにワシの肩を借りているのだ。
 
 
ポジティブとネガティブは車輪の両輪だ。
絶望と希望は対局のものではなく同じベクトルのものだ。
ワシらの意識は、身体の発するこれらの情報に言い訳をしているだけの観察者だ。