西城秀樹みてて思ったことと帝釈天のインスピレーション
( 2018/5/18)
還暦コンサートの舞台裏とか、そんなやつ。
んでなんか知らんが泣けてきたわけ。
いや、とくに西城秀樹のファンというわけではない。
たしかに子どもの頃からテレビで見てるんで、ワシの中では芸能人のアイコンみたいな感じだったので、訃報にはビックリしたけど、なんで今更YouTubeで漁ってまで見てるのか自分でも謎だ。
というか、西城秀樹の訃報を知ってから、あきらかになんか変だ。時代がおわったね、とかそんな感傷ではなく、ずっしりと重い感じ。
けれど、脳梗塞のリハビリしてたのはなーんとなく知ってたけれど、2回目だったこともぜんぜん知らなかったし、特に興味ももってなかったのに。
で、動画みてて気がついたんだが、どうも元気でブイブイいわしてた人が、年を重ねたり病気とかになったりで最前線から引っ込んで、それでどうなってるのかに興味が沸いてるんじゃないかと思ったわけ。
しばらく前にアスカに急にはまって、YouTubeで動画みまくってあげくにCDまで買ったけど、あの時もそうだわ。
どうも復活劇をみたいわけね。
ボロボロだけど、やってる姿にひかれてるわけね。
そういや、この前もイチローのニュース漁ってたわ。
で、これってエースがよぼよぼになって老衰で死んだこととか関係してるのね。
すげー痩せて骨と皮だけになって、ヨボヨボになってそういう姿とそこからの復活みたいなそんな物語をどこかかぶせてるんだろうと気が付いた。
死生観って、誰でもいつか考えることだと思うんだが、それは身内とか近い人が死んだときとか、自分が死にそうになった時とかそんな転機に考えるんだと思うわけ。
西城秀樹も、ボロボロだけど舞台に立ってて、それは本人も今の姿見てもらいたいって言ってたけど、いやなかなか見せれるもんじゃない。
痛々しいつーの?けど、この痛々しい姿を見せたいわけだし、この痛々しい姿見てるのは自分の中で「転機」を経験した人なんじゃないかと思ったわけ。
最近のワシは仕事でも虚構とか盛るのがもう結構嫌になってしまってるわけで、それはいろんなとこで喋くりしたり、ここで書いたりしてるが、そんな変化もこの辺に繋がってるんだと改めて思った。
ジンセーを悟りきったような面して語るやつよりもよ、
ビジネス極めてますって面して語るやつよりもよ、
俺が最終形でアガリ決めましたって面して語ってるやつよりもよ、
ボロボロだけど、なんか掴もうと手を伸ばしてるやつのほうがカッケーんじゃないか?
これは、会社も個人もそうなわけで、最近何回もワシ言ってるけど、こういった現在進行してる中にこそブランドって確立されるもんなんじゃないかってこと。