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西鶴アーカイブ

いろんなところに書いてきた文章のアーカイブ

「悟る」とは、モザイクが小さくなるように、んで突然見えるのにゃ!

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(2016/1/8)
駅のホームでそのおっさんは、まるでマネキン人形が倒れるように直立不動のままパッタンと倒れた。
 
去年の年末の話だ。
 
ワシはその日、打ち合わせと忘年会のため電車に乗り遅れそうになって階段を駆け上がっていた。で、あと数段のところでその光景を目撃した。
 
状況を理解するのにしばらく時間がかかったが、周りの人もただポカーンとしてたんでワシと同じだったんだろう。
 
かけよってみると、おっさんは目を開けてはいるものの、完璧にシャットダウンしてるみたいだ。
 
で、ちょうどその時、普通電車が入ってくるのが見えた。おっさんはホームで倒れているのだが、頭はホームのぎりぎりのところにある。
 
大丈夫だとは思ったが、下手すりゃ下手する。電車を止めなきゃ。
「ちょちょ、誰か、そのへんにあるアレ押して、アレアレ〜!!!」
 
たしかホームの柱のところにこういう時のための非常ベルだかが、設置されてたような気がするんだが、とっさのことで非常ベルという言葉がでてこない。
 
アレアレと騒いでると、若い兄ちゃんが来てくれたんで二人でおっさんの足をもって、せーのでホーム中央へとひきずって移動させた。
 
考えてみたら、あの時点で非常ベル押しても電車ってすぐ止まれないんじゃないかと思う。ともかく安全を確保してたら、別の若い兄ちゃんが走って駅員さんを呼びにいってくれて、ワシは現場維持。
 
そうこうしてるとおっさんは気がついて、「あれ?あれ?何?ワシ倒れた?」なんてのんびりと言ってる。
 
いやいや、あーた下手すりゃ生きてねーって。
 
駅員さんが来たんでバトンタッチでワシは電車に乗り込んだが、もー足がブルブルしてた。下手したときの光景が頭をかすめる。いや、もーギリギリ。今までの似たような光景がフラッシュバックする。
 
なぜかワシはこういった現場にでくわすことが多い。2国でおっさんが倒れてて、向こうから車が迫ってきたのは前に、ここに書いたけど、車イスのオネーチャンが血まみれだったことや、ヤマトヤシキのー、あー、思い出すから、やめよう。
 
とにかく、ここんとこ、死ってもんが怖くてしかたない。
 
それは去年から、ワンコの死で、死ぬとか生きるとかがやたらリアルになってるからだ。最近はちょっとマシになってきたような気がするとおもってたら、年末のこの出来事だ。
 
たぶん、ちょっとオカシイぐらいに敏感になっている。
 
西田さんに言わせると、ウォーフが死んだときよかマシだそうで、たしかにあの時は、ほとんど飯らしいものも食わずに、一日中椅子に座っていた。今月の18日で、あれからまるまる5年たつ。
 
 
その間、仮説をたてては壊し、また仮説をたてては壊し、賽の河原に石を積み上げるように考えてきた。目にも手にも触れることができず、また在るか無いかもわからないものに仮説は立てることはできても検証することなんかできない。
 
魂って何なんだろうか?
 
5年もそんなことを考えていたら、ほとんどライフワークみたいになってきて、その解はいっこうに得られないが、その分ずいぶんその手の知識が蓄積されてきた。
人の意識、記憶、身体、いろんな思想やさまざまなメソッド、哲学やら宗教やら、スピリチュアルやら、いわゆるトンデモ学説やら、サブカルやら。
 
とにかく片っ端から手をつけた。もう荒食い状態。なんでも飲み込むブラックバスみたいだ。
 
で、最近だんだんとその輪郭が鮮明になりつつあるような気がしている。
 
 
昨日、横の学問の話を書いたが「知る」ということはモザイクみたいなもんだと思う。よくクイズで「これは何でしょう?」みたいなのがあるけど、最初は大きなモザイクがかかってるので何が何かさっぱり解らない。
 
だんだんモザイクが小さくなってくると、ある時点で「あっ」って全体像が見える。
 
「知る」ってこともこのモザイクのクイズと同じで、とくかく解らないけど荒食いしていたら、だんだんモザイクが小さくなってくると思う。
解らないなりに、堆積してるんだわ。
 
で、ある閾値を超えたときに全体像が見えてくる。「知」が「識」になる瞬間だ。
知を識できれば、面白くなってくる。テーマがテーマだけに壮大なRPGみたいだ。
 
 
駅でパタンと人形のように倒れたおっさん。そういや、意識が戻ったとき、楽しそうに笑っていた。ワシはそのとき「いい気なもんだな」と思ったけれど、このおっさんも自分という存在が認識できたから、笑いがこみあげてきたんだろうと思う。
 
あの時のおっさんの目は、心に強く焼きついた。意識のない時は死んだ魚のような目をしていたが、意識を取り戻した時の目は、子供のようなキラキラした目だった。
 
ワシはパニくりながらも、なんて生き生きした目なんだろうーとノンビリしたことを考えていた。
 
このおっさんは、もしかしたら危機一髪のところで実は死んでいて、生まれかわったんじゃないか?そんなことを考えていた。
 
知は世界を構成する情報で、それがインプットされることで生物の内部では楽しみの感情が産まれるんだろう。だから、赤ん坊はいつだって楽しそうだ。産まれるということは、常に至福を引き連れてくる。
 
生物は、世界を知れば知るほど楽しくなるんだと思う。
ジンセーがろくなもんじゃないと思ってる人は、知をインプットしたらいいんだと思う。
 
それはやがて識になり、楽になる。
阿頼耶識は、産まれでた瞬間のことを言うのかもしれない。