感情の箱舟
(2018/3/10)
ウォーふが草むらに頭を突っ込んでいる。
ネズミとか、そんなもんを見つけたんだろう。
草むらからオケツだけが出ている。尻尾は大きく上にあげていてゆらゆらと振っている。
まるで旗を振ってるかのようだ。
それを見てエースや、ヤクザ犬やけいちゃんが、なんだなんだとやってきて、同じように草むらを探索し始める。
ワシはそんな様子をタバコを吸いながら見ている。
こーなったら時間かかるのは経験則だ。
あいつらの「狩りごっこ」が終わるまで帰れない。このタバコを吸い終えたら、ワシも狩りに参加してみよう。
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人に犬を「飼え」とは勧めないが、犬と「暮らす」なら多頭飼いがいい。
多頭飼いには、いろいろと興味深い行動が見られるからだ。犬たちといろんなところに出かけていくと、やつらの習性や掟を目の当たりにする。
それらをワシは「ケモノにことわり」と呼んでいた。
この前のカキコで感情について書いた。
で、感情について考察したのも、このワンコたちの「狩りごっこ」を見て気がついたものの一つだ。
犬はかなり感情豊かだ。表情筋はヒトに比べて少ないらしいが、全身で感情を表現できる。
草むらで尻尾を旗のように振っているのは、まさしく「旗」で、ほかの犬に旗を振ってなんかいると合図している。
オケツを大きく上に向けているのは草むらから少しでも出るためだ。尻尾を振るのもその方が目印なるから。
オモロイのは、これらは言語ではないところにある。
犬のこういった行動を言語だという学者もいるが、言語は感情とは切り離されたものだ。
犬のこういった行動は感情そのものと結びついている。
尻尾を振ってるうぉーふも、他の犬の目印として尻尾を振っているわけではなく、感情のおもむくままにその行動を取っている。
だから、嘘で尻尾をふることはできない。
(余談だが、犬は嘘をつける。この話はまた書くけど、ウチのRはときどき嘘をついていた。もしかしたら、あいつは実は狐だったんじゃないかと思ってるぐらいだ)
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感情は、言語ではない。
ヒトは言語こそがコミュニケーションだと思っているが、感情こそがコミュニケーションである。
ニコニコニーは、この場所この時間は安全なんだよと仲間に伝える。だから誰かがニコニコニーしていると自分もニコニコニーが移ってくる。
ニッケで機嫌が悪いワシを、たった一人のガキがニコニコ手を振ることで一瞬に反転させたようにだ。
逆に怒ってる人がいると、この場所この時間はなにかの危険、あるいは不愉快になることがあるのかもしれないと思い警戒する。
感情が人に憑依する仕組みとは、そういうものだし、またそのために感情は身体機能に一つとして用意されている。
これを総じて、「雰囲気」と言う。
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ヒトの社会は、言語により高度な情報の伝達が可能になった。それゆえに弊害として嘘というものが出てきた。
そして、情報リテラシーが求められるようになった。
2ちゃんのひろゆきの言うように「嘘を嘘と見抜けんような奴は」というわけだ。
言語は意思によって発動するから、感情を伝えきれない。
最近は電話で済むような案件もメールでくることが多くなって、仕事でもやたら丁寧な言葉を使ってくる人も多い。
たとえば、「鶴さんのすばらしい提案を心待ちにしております」という文章。
正直言って、あまりにも丁寧すぎて心に沁みてこない。
へんな言い方ということしか思わない。
選挙カーで誰もが言ってる「明るい未来を考える」みたいな感じ。
が、電話だと声のトーンとか言語以外の情報で真意はなーんとなくわかる。実際に顔を見て話すとその情報の量ははるかに上回り、そのヒトの言語以外のココロはもっと伝わってくる。
感情のニコニコを言語だけで伝えるには、膨大な情報量とそれを編集するテクニックが必要になる。
だから、言語は感情を伝えきれないのだ。
またまた余談だが、コンピュータがこれからもっと進化すればおそらくヒトの言語よりも感情に近い形で情報伝達できるんじゃないかとワシは考える。
その肝は、量子化でI/Oのスピードと情報量の扱いがケタ違いになるからだ。
今から何世代目かの世界ではAIのほうが感情的ということもありえるかもしれない。
話を戻す。
感情はヒトの社会ではやたら敬遠される。
たしかに感情的では、具体的なことがわからないから言語にする必要がある。言語はロジカルを基本としているから、感情と切り離す必要がある。
だから冷静さというものが必要とされる。
で、誰もが感情を抑え込もうとしたり、手なずけようとしたりする。
結果、ワシの言う「鳴らない太鼓理論」(鳴らない太鼓はやがてたたかれることはなくなる)で、感情の発露の仕組みが働かなくなり鬱を発症する。
ストレス社会っていうけど、その正体はこの感情を抑え込むことから生まれる身体の不具合なんだろう。
ワシの場合、仕事が混んでくると自分が機械になったつもりでタンタンと作業する。で、仕事が終わると、「ハラスのいた日々」とかの映画を見て、思いっきり泣く。
特に泣くことや怒ることは重要で、それは笑うことよりも社会的に認められていないからだと思う。
オモロイもんで、ヒトは感情のキャッチボールをした相手とは、相手の名前や素性やプロフを知らなくて仲間だと思う。
これはとても「犬的」な関係だ。
セミナーとか、講演会でも、参加者が大泣きし、つられて主催者まで泣いてしまうようなものは、皆大満足だ。これは基本的なコミュニケーションを言語ではなく感情で行なってるからだろう。
人が多く集まるセミナーは、主催者は気がついていないケースが多いが、この感情を発露するしくみがうまく構築できている。
逆にいうと人が集まらないもの、人気のないエンタメ、人気のない芸人とかはこの感情を発露するしくみが無いとも言える。
それがわかっていないと、理屈的にはうまくいくはずなんだけどなぁと首をかしげることになる。
これは会社の経営にも言えることだ。
ネットで人は時間と空間を飛び越えて繋がるようになったけど、この感情の部分を考えると繋がっているとは言い難い。
シンギュラリティの先には、この感情が大きなキーワードとして浮上してくると思う。