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西鶴アーカイブ

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誰のために何をどうする?

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(2018/6/28)
 
今日は燃えないゴミ日。
 
最近、燃やさないゴミの日と呼び方変わったんだが、まあたいていのものは燃えるから、「燃やさない」ないなんだろうけど、主体が誰なのかがわからんのでややこしい。
 
燃やしてはダメなゴミっていうのが正解なんだろうけど、まーそんなことはどちでもいい。
 
オーブントースターが、この前から壊れていて、使っていないんだが、捨てようとしたらゴミ当番のおっさんがコレはダメだという。
 
前はみかん箱に入る大きさって決まりだったと思うんだが持って帰ってきて、公民館とかに置いてある家電用のボックスに入れるのかと思ったんだが、どーも大きさ的に無理っぽい。
 
お金払って取りにきてもらうのかと思って問い合わせたら、燃やさないゴミに出せと言う。あー、もーいいや。こいつも自宅ゴミ置き場に積んでおこう。
 
西田さんは、ときどきゴミ回収をしてるみたいで、車にゴミをいっぱいにして直接搬入している。
 
ワシから見たらボランティアなんだが、本人は「ついで」らしい。
 
この前から、いろんなゴミ屋敷みたいなとこを「ついで」に片付けまくっているが、あげくにウッドチップつくるみたいな木の枝の断裁機を買うかどうか迷ってるという。
 
いや、あーたやってるのほとんど小さい行政やん、そんなことよか仕事せーよとワシは言うのだが、本人はけろっとしている。
 
人間1日2万字しゃべらなあかんねんという謎理論もそうだが、どーもこの人本能的な群れ理論が体感としてわかっているんだろうかと思う。
 
 
パーマ屋だけにパーマカルチャーがわかってるようで、そのコミュニティは小さい縁ではなくて、誰でも受け入れる大きな縁を想定してるのが謎なところだ。
 
誰もがこんな感じで「ついで」で動いていれば、それこそ行政はあんまり大きく肥大(あえてこの言葉を使う)することもない。
 
だが、西田さんにワシが「そんなことより仕事せーよ」と指摘するように、ついでで関わりすぎると自分の仕事や生活がおろそかになりかねない。
 
だから、ついでの行動にはどこまでがついでなのかの線引きが必要になる。血縁?地縁?職縁?それか何か条件つける?
 
助けあいの社会には、こうやって「ムラ」ができてきた。ムラに参加できないものはムラハチブで、一人で生きていく必要があった。
 
パーマカルチャーで自給自足をしていく場合にも、このムラ関係がないと生きていけないのは、実際にお金をいっさい使わずに生活してみたマークボイルという外人がその著書「無銭経済宣言」でも書いてるとおりだ。
 
彼の言う「多くの友人たちの協力」とは、日本でいうところのムラに近い。
 
マークは、その生活や本を書くなどのアウトプットに長けているから、彼のムラは比較的大きい。つまりお友達がいっぱいいる。
 
が、これは誰もができることではない。
 
マークでなくても、助けてもらえるように整備されてきたのがムラではなく社会だ。
 
金があれば、私が誰であろうが誰にでも助けてもらえる。
臭いホームレスであろうが、コンビニでパンを買うことができる。
 
税金を払えば、行政のサービスやセーフティネットを利用できる。
 
ん?いや、ちょっと待て、
 
では、実際のところなぜ西田さんはこんな「ついで」をやってるんだ?
 
「まちづくり」と「ムラづくり」。それって似てるようで大きく違う。
 
ここでも、重要なワードは、誰のために何をどうするかなのだ。