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西鶴アーカイブ

いろんなところに書いてきた文章のアーカイブ

ものがたりをつくる私

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(2016・1・13)
 
物語について色々考えてたんだけど、人の想像力が物語の源泉であることは間違いないが、そこに絡んでくるのは「前例」って奴だろうなと思った。
 
ワシが中学のときに好きだった漫画が「男おいどん」。ヤマトの松本零士の漫画で、四畳半のアパートで布団もない主人公がパンツの山と謎のとりとアパートの大家のばあさんとで繰り広げるペーソスギャグ。
 
同級生は、この漫画をそんなに面白いとは思わんかったようだが、なぜかワシはこの漫画が大のお気に入りだった。
 
たぶん、自分と重ねていたからだ。
漫画だけど、同じような境遇の主人公に共感して、勇気づけられた。
 
もっと正確に言うと、「自分だけじゃない」と思えた。
だから、大丈夫だと思えた。
 
けど、その男おいどんの最終回は、おいどんがトリさん置いてどかいっちゃうんだわ。
あれは、ちとショックだった。いや、かなりショックだった。
 
その後、同じく松本零士の漫画で「ワダチ」ってSF漫画があって、主人公の名前は違うけど四畳半でパンツでアパートの大家のオバちゃんもでてきて・・・物語の最初の頃の設定はほとんど同じ。
 
けれど、ワダチでは主人公は大活躍する。地球がダメになって宇宙船で他の惑星に移住してそこで地球ではダメダメだった主人公の特性が逆に発揮され、たくましくサバイバルしてゆく。
 
ワシは小躍りしながら、この漫画を読んだ。救われたような気がした。
 
しかし・・・、ワシの中では、勝手に「男おいどん」の続編的な扱いになってる「ワダチ」のほうは「男おいどん」ほどハマらなかった。
 
「自分だけじゃない」と思えなかったからだ。
大活躍する主人公には共感できなかった。
なぜなら、ワシはまだ四畳半だったからだ。まだ抜け出せてなかったからだ。
 
 
「どんとこい貧困」の湯浅君。反貧困ネットワークの湯浅君ね。彼がこんなこと言ってる。貧困には2種類あって、生きていけない貧困と相対的な貧困。
 
今日の食べるものすらばいというのは生きていけない貧困。ほかの人と同じでないのが相対的な貧困。
 
相対的な貧困、つまり「自分だけ」っていう貧困は孤独や孤立とセットになる。
 
たとえば、自分だけ弁当が持ってこれない。たしかに生きていくのにはどうということはない。が、この時にいかにうまく立ち回るかで、ヘタしたら貧困や孤独がアンデンティティにしみこんじゃう。
 
ワシはうまく立ち回れたほうだ。同級生の女の子が弁当を代わる代わる作ってくれたり、空の弁当箱を持って「ぜいきーん、ぜいきーん」と徴収して回ることができた。
 
だから、自分は金がなくて孤独な人間なんだという物語をつくらずに、自分はアイデアでなんでも乗り越えることができるんだという物語を作れた。
 
実際、今もそれで飯を食ってる。
 
 
阪神淡路の震災の時もこれを感じた。家族が死んじゃってそれでも頑張ってる人は、周りも皆そうだったからだと思った。「自分だけじゃないから・・・」実際にこの言葉は何度も聞いた。
 
中学の時、ワシの周りに同じような境遇の奴はいなかった。だから、男おいどんに共感した。そうせざるを得なかったのかもしれない。
 
 
失恋ソングが流行るのもそうかも。なんでハートブレイクしてるのに、そんな傷をえぐるような歌聴いてるんだ?ってことにワシはこんな仮説を立ててた。
 
「何回も繰り返すことで痛みに慣れるんだ」と。
 
たしかにそういう心のしくみもある。ショックな出来事は何度も再生される。慣れるためだ。けれど、ハートブレイクは、自分だけじゃないと思いたいという心のしくみじゃないだろうか。その解釈のほうが、今では腑に落ちると思っている。
 
つまり、「前例」だ。
ここは誰かが通った道、だから大丈夫なんだと思いたい。
 
そんなふうに思うことで、今日を乗り切れるんじゃないかと。
 
 
タイガーマスク、どんてん大将、ハリスの風・・・考えてみれば、皆、似たような境遇だ。だからガキの頃のワシは好きだったんだわ。
 
千と千尋、ホタルの墓、だから二度と見ようとは思わない。ここには救いがない。
 
 
生物にとって「知らない」というのは恐怖の対象になる。
 
犬だって知らない所に車で散歩にいくと、降りたとたんに周りに気を張る。地面の匂いをひとしきり嗅いでようやく落ち着く。
 
知ることで安心できる。
 
人も未来を想像するとき、そこに確実性が担保できない限り、ろくでもない想像ばかりしてしまう。うまくいくイメージは曖昧なのに、ダメだった時のイメージは鮮明だ。
 
人はデフォルトでは、負の物語を頭に描く。
 
これって「知ろう」とする欲求、つまり危機回避なんだろう。
最悪の状態を想像する、つまり知ろうとすることでそれに備えることができる。そのシミュレーションなんだろう。
 
ろくでもない想像から逃れるために、スポーツ選手は練習し、試験の場合は勉強し、自営業者は計画を練り、確実性をあげていく。
 
その担保が閾値を超えたときに、ようやく安心が産まれ、ろくでもない想像から逃れることができる。
 
 
「自分だけじゃない」。これって結構重要なキーワードじゃないかと思う。これが強くなりすぎると、いわゆる人の足を引っ張るということが起きる。
 
妬み、嫉妬、そういった感情と行動の源泉だ。これらは相対から産まれる。つまり、「一人にしないで」だ。
 
ここにはダブルバインドが存在する。二重拘束だ。
自分だけじゃないと思えるから、耐えられるのだが、自分だけになると耐えられないから、抜け出そうとするものそもからする者にエールを送れない。
 
自分が抜け出そうという気にはなれないというのが、不思議なところだが、そのボーダーラインをわけるものはなんだろう?
 
たぶんそれは孤独と向き合う心構えなんだろうと思う。
 
自分だけじゃないという安心感。これは帰属意識だ。人は圧倒的に一人では生きていけない。これは何億年もアカシックに刻み込まれた人の特性だ。
 
獣のように武器である牙や、爪を持たない人は分業することで生きていった。大勢で狩りをし、獲物が捕れないリスクヘッジをして生きてこれた。だから帰属意識が高い、逆の言い方をすれば孤独が怖い。
 
 
最近は、いたるところにコミュニティがあって、そこでの勉強会やセミナーが頻繁に行われている。ネットで人と人は簡単に繋がる。人は孤独を克服できたか?
 
そうではないと思う。
 
セミナーでも安くても数千円がかかる。知識を得るだけなら、その金で本を読み込んだほうが効率的だ。
 
けれど、そうはしないのはそこに「自分だけじゃない」があるからだ。
 
また、いわゆる不倫なんていうのも早い話二股かけてるというだけで、ここにある心の動きは「帰属する場所」があるがゆえのもの、担保があるということではないかと思う。
 
絶対安心の巣穴があるからこそ、保守ではない自分が出せる。
今までの拘束が外れたことで、それが本当の自分だと思えてくる。ダメでもともと、なにも失うことはない。そんなナンチャッテ冒険の物語は、決して死なないRPGのように楽しくドキドキする。
 
 
人は物語に憑依される。
そこには、孤独と向き合うことができない人の特性があるからだ。そしてそれは「依存」を産む。
 
自分と同じ物語を見る他人が必要になり、その依存関係こそが安心を与えてくれる。
 
はて、ではそれらの拘束を断ち切って、スタンドアローンであるにはどうしたらいいんだろうか?