turuya

西鶴アーカイブ

いろんなところに書いてきた文章のアーカイブ

【いいじゃないの、シャーワセならば!みんな、ありがとー!】

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しかし、軽四のHM-1ハッパゴーを手に入れたことで充分テンションが上がってる57歳。この歳になるまで自分の車を持ったことがないという特異点

 


どこか優先順位が世間とズレてる気がする。

 


が無欲というわけではなく、どちらかといえば欲しいのものは手に入れてきたと思う。

 


そういや、財布を初めて買ったのも、5、6年だ。タフってブランドの財布。1万ぐらいした。カッケーので今も大事に使ってる。時々、オイルで磨いてやるんだが、だいぶクタクタになってきた。

 


そのタフの財布にはいつも宝クジが3枚だけ入ってる。

 


抽選日はとっくの昔の終わったけど、あえて答え合わせしてへんクジ。

1年間の当たりくじの時効になる前に、新しいのと交換する。

 


これだけで1年間夢見れる。ふふふ。ワシの財布には億という金(の可能性)がはいってるんだぜ。この金使うためにちょっくら情報収集するかー。ネットポチー。

 


(前に3桁にいこうかというドローンをまちごてカートにいれた時は焦った。一気に夢から醒めた。夢から醒めんと確実に死ぬわ)

 


まさに夢を買う。たった900円で。めちゃお得だ。お値段以上だ。

 


 


宝クジでワシがよくいうジョーク。

 


「予言したるわ。宝クジは買い続けてたら絶対にあたる。これ間違いない」(まー、何等かは知らんけどなー)

 


この前だれかのコメントでこんなんあった。

 


「宝クジは当たるか当たらないかの二分の一。これは買うしかないでしょ」

 


いや、このジョーク優秀やん。ワシの考えたやつよりエーやん。パチクリさせてもらうわ。自分が考えたみたいに使わせてもらうわー。

 


 


が、ちょい待ってよ。この宝くじのジョークって似たようなこと世の中には多いよな。

 


たしかに「自分だけ」目線でみたら、当たるか当たらないかの二分の一だ。けど、実際は発行数か販売数か知らんかを分母とする何分の一だ。

 


当たるか当たらんかという自分だけを基準にしたら、宝クジだけでなくて、あらゆることがお花畑になってくる。常に目の前にはラッキーがある。

 


苦労なんかしなくても、選べばいいだけなのだ。

なにしろ二分の一なんだから。ナニブレーキ踏んでるの?やるっきゃないでしょ。買うしかないでしょ。ゴーゴーハッパゴー!

 


目を塞ぎ、耳を塞ぎ、自分(達)の世界に引き篭もれば、目の前は常にお花畑だ。可能性は必ずある。当たるか当たらないかだ。二分の一だ。

やるっきゃないでしょ。買うしかないでしょ。ゴーゴーハッパゴー!

 


 


なんか自分で書いてても、このトリックにはまりそうになる。

 


そう、苦労なんかしなくても、選べばいいだけなのだ。なにしろ二分の一なんだから。ナニブレーキ踏んでるの?やるっきゃないでしょ。買うしかないでしょ。ゴーゴーハッパゴー!

 


世の中のあらゆることからシャットダウンして、楽しくゆかいに笑いながら、うひょひょひょひょーい。ゴーゴーハッパゴー!

 


 


さて、お気づきだろうか?では、もう一度。

ゴーゴーハッパゴー!

 


このハッピーって、正確に言うと「常に誰かよりもハッピー」ってことだ。

 


「人と同じでありたい」が、いつしか「人よりも」に変わる。

「貢献する」がいつしか「与えてやる」に変わる。

 


難しいをさけ、共感に流れる

引き受けるをさけ、自己責任へと流れる

寄り添うをさけ、教えるに流れる

ジンセーをさけ、あの世に流れる

 


現実をさけ、夢に流れる

 


合法的シャブ売りが、今日も顧客を求めて闊歩する。

 


それでも彼らは言うのだ。

いいじゃないの。シャーワセならば。