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西鶴アーカイブ

いろんなところに書いてきた文章のアーカイブ

【多くの視線の中注目をあびるという物語を終わらせろ】

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GOの三浦くんのホームページ見てみた。TOPがカッコいい。

 


ワシが書くような文章が流れる。(どっか思考が似てるんか?)

 


「いつだって悲観は気分、楽観は意志だ。さざなみを無風ととるか、変化の予兆ととるか。砂漠に木を植えるのは無駄な努力か、

それとも世界を変える一歩か。

 


人類の歴史で初めて、月に人を送り届けた 20代の若者たちはおびえていたのか。それとも、ワクワクしたのか。

 


革命は辺境から起こる。常識は覆されるのを待っている。未来のルールを決めるのは、現在を生きている誰かだ。つまり?

 


日本は非成長社会といわれる、だが。いや、だからこそ企業や社会の

変化に対する期待は高まっている。変化するべきか。挑戦するべきか。

前に進むべきか。我々は常に、意志をもって、こう言い続ける。

いこう。その先。GO   」

 

 

 

悔しいけど、カッコえーわ。

 


左利きのエレンの漫画でもこんなこと言ってる。

「仕事ってもんは少年漫画だろ」

これは実際にも三浦くんが言いそうなことだ。

 


彼はいつもラッパーみたいなカッコしてるが、これも彼なりの演出で、カッコよさだ。ラッパーみたいなやつが、プレゼンで一瞬で相手を倒す。全力で倒す。

 


そー、まるで少年漫画だ。カッコいい。

 


やっぱ、どこかワシと似てるとこあるのかも。

 


じんせーの主人公オレやん!だから、カッコよく振る舞わんとアカンやん!

 


なーんてことを言って、ワシも若い頃イキっていた。だから常に自分を発揮できる舞台を探していた。問題が発生している現場は舞台だと、どこにでも首を突っ込む。

 


他の人が引くような場面でも、ここがクライマックスやん!と思って武者震いして口の端から笑みがこぼれてしまう。

 


それこそ、死んでもいいやぐらいに思っているから、どう考えても「無敵の人」なわけで、燃え盛る炎の中でも飛び込んで子供を抱えて戻ってくる。そんな勢いだ。

 


恐怖よりも自分の舞台のほうが大事なのだ。

 


だもんだから、武勇伝はいっぱーいある。武勇伝つくるんがジンセーやん!

 


けど、正直いってどーでもいいよなと思い始めたのはいつからだったかなぁ?

 


ケコーンは、関係ない。なんでかっていうと、会計も別だったし家事も別、基本的に分担じゃなくてシェアだったから特になにも変わってない。

 


やっぱし、ワンコと暮らし始めたことが大きいと思う。じょじょに生きていくことが自分のことから、他人のことに変わったんだろうと思う。

 


ウォーふの腹のガンがグチュグチュしはじめて、1日に何回も包帯を取り替えて洗ってた頃、道端で冴えないサラリーマンのおっさんを見かけた。

 


風の強い日で、おっさんは携帯を片手に道端で座り込み書類を道路に広げて何か書き込んでいた。

 


ハゲかけた頭の毛が風でなびいて、その毛を手で押さえて携帯でペコペコ頭をさげながら、書類にメモしていた。

 


漫画みたいな光景だけど、それ見てワシはカッケーと思った。

 


おっさん、必死やん。かっこも気にせず、道端で書類広げて薄い髪押さえて、なんか冴えないとこがカッケー。

 


自分のことはさておき、誰かのために必死こいてるんだろう。

 


 


絵を描く。特になにを描くか決めていない。直感で描く。

腕組みした自我像。口の端に笑が張り付く。

 


「そおいや、最近ビジネス系でこんなポーズのセルフポートレート使う人多いな」と思いながらー。

 


文字を入れる。そうだ、本の目次みたいに入れてみよう。いかに演技力を発揮するか?ジンセーにおいて舞台はどこになるのか?

 


そんな風にして出来上がった絵はまるで、まるで自己啓発の本の表紙やん!

 


それぞれの見出しで、いろんな本がでている。つまり、そういうことなのだ。

 


ワシの持論なんだが、悪化した環境の中に身を置くと、自分を見下ろすもう一人の自分がでてくる。このもう一人の自分は、意識の安全装置だ。

自分のことなんだが、他人のことのように感じることで自分が守られる。

 


そんなココロのしくみ。

 


このもう一人の自分が、成長しちゃうことで人格に中に別の人格が宿るという疾患につながるんじゃないかと思っている。

 


が、自分を見下ろすもう一人の自分っていうのは誰もが経験したことがあると思う。

 


自分を他人の目で見る。

だから、他人が気になる。どちらが主人公かでマウントとる。これはすべての欲求の最下位にあるもっとも根源的なものだ。人が人を求める由縁でもある。

 


これは脳のミラーリングの副産物だが、同時に意識の入れ物でもある。

人は物語をつくる唯一の生物だが、ものがたりの歴史が人類の歴史と同じぐらいに長いのは、このためだ。

 


そういう意味で冒頭に書いた三浦くんの会社の「いつだって悲観は気分、楽観は意志だ」っていうのはタダシイ。

 


気分は本能であり、意志はものがたりだ。

 


ものがたりに憑依されているとき、人はシャーワセでいられる。

ものがたりに憑依されることが人が望むことだ。だから、人はものがたりを好むし、そのものがたりを自分に当てはめようとする。

 


オリジナルのものがたりを描けるやつは、一流とされ、二流三流のやつはテンプレートなものがたりしか描けない。

 


地獄のような環境からv字でのびあがりましたーなんてのは誰もが使うテンプレートだ。あきるほど使いまわされた定番だ。

 


しかしー、ワシはあえてこう言いたい。

 


いつだって悲観は足りなさ、楽観は錯覚。

自分のものがたりに酔ってんじゃねぇ。

舞台を壊せ、ものがたりをおわらせろ!

匿名であれ!デクノボーであれ!

ジンセーを自分の手に取り戻せ!

 


その案件に 

NOだ!