【ゲームの王国~すべてが流通になっていく時代】
ちょっとここんとこ考えてるテーマと外れるけど、この前書いた「明日の政治はどうなるか」のコメントで、しまにいが書いてた「営業職はなくならない」について書いてみたい。
去年の暮れにどういうわけかワシはリアルな絵を描くのにハマった。
正確に言うとリアルな絵に文字を入れるのにハマったわけ。
で、こんなふうな文字がはいった小説の装丁をしてみたいとフト思ったのだ。
今本屋に並んでいる装丁は文字はタイトルと作者名しか入っていない。
内容を紹介する文面は帯に書かれていて、さながら帯は本の広告の有様で、必ずしも本の装丁のデザインと一体化しているわけではない。
ワシは帯要素、「小説の内容をほのめかして買う気にさせる」というものを装丁デザインとして入れ込んだものを作りたいと思ったのだ。
で、今ある既存の小説の装丁を勝手に作ってFacebookやインスタにあげるという遊びをしていたというわけ。
(ただ、そのまんまだとつまんないのでタイトルは変えずに本の内容を微妙に変えている)
で、ちょっと欲がでた。この手のやり方で本当に装丁して、その反応を見たくなったのだ。かといって、小説の装丁なんて仕事はしたことがない。出版社に営業いったらいいのか?
そこでたまたま見つけたのが某クラウドソーシングでの案件だった。
キンドル出版で電子本と印刷した小説本を出すので装丁を考えてくれというもの。
数件似たような依頼があったのだが、実際に本の内容をPDFファイルでアップしている依頼は一件だけだった。
他の案件は、本のタイトルと簡単な内容の説明しかかいていない。それではつくりようがない。
早速ダウンロードして読んだ。正直つまんなかった。荒削りだし、テーマの精度がゆるすぎる。最後は、結局テーマを消化することなくどよーんとした雰囲気のまま終わる。
作者は何を表現したかったんだろう。ワシも小説はかなり読むほうだが、プロとアマの差を見せつけられた気がした。
それでも、読み込んでいくとワシはこの小説が好きになってきた。
好きになる。これは仕事をする上で一番先にとりかかる作業だ。好きでもないものを人に紹介なんてできない。
さっそく、ワシはこの案件にとりかかることにした。
コンペ形式らしいが、正確に言うとコンテストだ。実験的なことを試すにはリスクが低いから好都合だ。特に電子本の表紙はリアル本のように帯なんてものはつかないから、ワシのやりたい装丁にはもってこいの媒体だ。
表紙を見るたびに本の内容を思い出す。そこでまた本を開いてみようと思う。プリントでもして壁に飾れば、常に作者からの問いかけが発せられる。そんな絵画のような装丁。あいだみつをの絵のような語りかける装丁。
それがワシのやりたいことだった。
さっそくそのクラウドソーシングに登録して、この案件に参加した。
出来栄えは、自分ではまずまずだと思ったが、ちょっと気になることがあった。
それは、これは依頼に応えてるんじゃなくて、コラボじゃねーかと言うことだった。タイトルや作者名はそのままだが、作者の言いたいことをワシが勝手に解釈してタイトルの横にコピーでつけている。
そのコピーは、作者の言葉ではなく、あきらかに「ワシの言葉」だった。
そのコピーは、この小説のテーマが未消化な部分を補うようにした。つまり、読者にあえて問いかけるようにしたのだった。
そのことでこの小説は、また別の側面を見せるようになった。物語というよりも問いかけ。これを読んであーたはどう考えるか?問いを突きつけられる感じになった。
はて、しかし、これを依頼主がどう思うだろうか?原作レイプとまではいかない。本文にもちろん手を入れていない。が、作者としては気を悪くするんじゃないだろうか?
案件の説明にそのことを長々と書いた。この趣旨に賛同するかしないか、そこはやはり顔を突き合わせて打ち合わせできんジレンマである。
また、それはそもそもクラウドソーシングの発注システムの弱点でもある。顔も考えかたもどこの誰かわからない人と案件だけで繋がろうとしているのだ。
結果、ワシは落選し、フツーのーものが当選した。
正直言えば、えっ!こんなん?って感じのものだ。ワードデザインみたいなものだ。一言でいえばダサい。テンプレにもほどがあるものだった。
選ぶという行為にはありがちなことだ。依頼するのと選ぶのは大きく異なる。リアルでも選ぶという選択仕事にすると大抵が作り手の思惑と別のものが選ばれる。
誰からも文句がでない無難なもの、インパクトがないもの、責任が生じないもの、じゃまくさくないもの、選ぶという行為はこれらを呼び寄せる。
そもそもターゲットがズレている。客は依頼主ではなく、依頼主の売る商品を買う人なのだ。作り手はそうしたターゲットに向けてつくる。だが、依頼主は自分の好みを求めている。一人よがりのカッコよさは、多くの人の「ふーん」なのだ。
まー、営業抜きでの仕事はこんなもんだろうと全く落胆もせずに他の案件も見てみた。が、ロゴの案件とかはクジ引きみたいになっている。
案件にもよるのだが、ひどいものは「塾のロゴをつくってください。名前は西鶴塾です」ぐらいしか書いていないものもある。
こんなんでどうやってつくるんだ?と提案してるものを見ると、キレイにまとまってはいるんだが、どこにでもあるようなものばかりだ。
そりゃ、そうなるわな。けれど、その応募の数は何十件もある。
中には写真の合成で、看板や名刺や封筒にロゴを合成したものもある。
合成した写真をみれば、よく見えるものだ。これはAdobeのソフトでものの数分でできる。たぶん、そうやるのがここのルールなんだろう。
これは仕事というより、ゲームに近い。
王様に気に入られたやつが勝ち。そういうゲームだ。
慣れたやつなら案件にそんなに時間はかからない。1日あれば数十件もこなせる。その中で1件採用されれば上等なのだろう。
そういや、このクラウドソーシングの創業者?が昔なにかのインタヴューでこんなこと言ってた。
「前に自分の会社のロゴをデザイナーに作ってもらったんですよ。めちゃくちゃ高くてね。そこでデザイナーの卵に作ってもらったら、安くで済むし、デザイナーのほうは実績になるしウィンウィンだなーと。それでこのシステム立ち上げたわけですよ」
最近はさすがにこの創業者の言葉は、別の言い方に差し替えられているようだが、つまりそおいうゲームのプラットホームをつくりあげたというわけなのだ。
このサービスが立ち上がった頃は、ネットでいろいろ議論があったものだが、今ではすっかり浸透している。最初はロゴ案件数千円というのもあったが、さすがに最近は運営側がテコ入れしたようで5万ぐらいの相場にまで上がってきているようだ。
まあ、ワシは環境の変化に文句は言わない主義だ。
ゲームならゲームで勝てばいいだけの話だからだ。
だが、このエピソードは「営業」とは何か?
「人と繋がる」とはどういうことか?
「仕事」とは何か?
それらのことを改めてワシに再認識させたのだった。
そおいや、ある人が「これからeコマース、つまりネットで自販機のようなシステムを構築して自動的に仕事がくるしくみを作ってないとこは滅びる」なんてことを言ってた。
ネットがポータル(玄関)なのは、たしかにその通りだが、自動販売機化はできる業種とできない業種があるとワシは思う。たとえばAmazonは業種的には小売ではなく流通になる。これは以外と知られていない。
実際、ネットの向こうに人のナリが見えるようにつくっているサイトは、このことがよくわかっているのだろう。
手前味噌だが、ワシのつくった某サイトは、ダサくダサく作ってある。なぜかというと、このサイト主は職人みたいなおっさんで電話にも播州弁まるだしで喋るのだ。メールの文章も実に味気ない。
そういうのがちゃんとできる人を雇う気もさらさらないようだし、雇ったとしてもヤカラのようなこのおっさんの元で働く奴はいないだろうと思う。
だから、あえて職人の不器用なおっさんが趣味で片手間でやってるんですよというニュアンスをちりばめてつくっている。
これがオサレで洗練されたものだと、問い合わせしたときのギャップが大きく、すぐにクレームになってしまうだろう。
「まあ、不器用な職人だからシャーないな、モノはいいしな」と思わせるようにあえて作っているのだ。
人とモノを繋ぐのは自販機でも、まあなんとかなる。自販機もAmazon同様小売ではなく流通だ。
(本当はモノも人から買いたいのはスタバに関する一蓮の記事で何度も書いたが、これはネットでは物理的に無理だ。それこそ流通大手のクロネコが小売始めるようなことになる)
だが、人と人は互いのイズムのマッチングである。
このイズムのマッチングはネットではなかなか時間がかかるし、プラットホームに乗っけることは今のところまだ無理だろう。
ましてや、前述の創業者のように、安い労働力の確保という観点からはこの課題を解決したUIやUXをもつプラットホームは決してできない。
さらに企業は生産性を上げるために人を削っている。アメリカでは2000年から雇用を減らすことで生産性を上げるということを積極的にやっている。スタバはバイトに80時間もかけて研修をするらしいが、これは稀なケースだろう。
クラウドソーシングをはじめ、彼らがつくろうとしているものは社会の基盤というプラットホームではなくて、ゲームの王国なのだ。
ときどきビジネスをドラクエと例える若い人(ときにはジジイも)がいるが、たしかにそれは間違いではないだろう。
装備を整え仲間を集め、小銭を稼ぎながら装備をグレードアップしてゆく。ときには、ショートカットな裏技も含めてながらゲームに勝利(事業を売却)する。
これをジンセーの生き方だと得意げに語るやつも多いが、あくまでこれはゲームの話だ。人のジンセーはゲームではない。
ここで勝ち戦のノロシをあげている奴は、ちいさな決められたルールのジンセーゲームで勝ってるに過ぎない。ゲームでの経験値は、リアルでの経験値と違ってそのゲームでしか通用しない。
イラレというソフトの使い方をいくら覚えてもデザインを覚えたことにはならないのと同じだ。Adobeがルールを変えればたちまちそのスキルは霧散デリートされる。
とはいえゲームの王国はちゃくちゃくと構築されている。人のイズムという個性はbitに間引かれ、優劣だけで計算される演算子になろうとしているのだ。