動物園のサル山って人間が餌を運んでくるから力のあるやつがエサを占拠する。
周りのやつは力のあるやつが食べ終えてどこかにいくのを指をくわえてまっている。中には力のあるやつに気に入られようとする戦略をとるやつや、力で奪い取ろうとする奴もでてくる。
そんなサル山の日常を見ていてニンゲンは力のあるやつがボスだという言い方をする。
けれど、野生のサルは力のあるやつを頂点としたヒエラルキーな構造にはなっていないという研究結果もある。それぞれの個体がそれぞれの能力を持っていて、そのときの環境に応じてボス的な役割をこなしているらしい。
ボスという発想はあくまでニンゲン社会に照らし合わせて考えたバイアスだというのだ。
たしかに食物連鎖でさえ、どこにも頂点なんてものはなく、すべてが循環になっている。
つまり、動物園のサル山は常にニンゲンがエサを運んでくるという同じ環境なので当然ひとつの能力に秀でたもの、力のつよい個体がボスのように振る舞えるというわけだ、
同じ環境であるから、多様性は発揮されない。多様性はたんなる可能性としてアーカイブされているに留まる。ようするに無駄な能力として表にでてくることがない。
競争というのはあくまでエサが降ってくるという環境からしか生まれないのだ。
はて、このサル山の話しはもー何十年もワシはいろんなとこに書いたり、喋ったりしてきた。
人の社会はまさにこのサル山で、経済はほんらい循環するべきものなんだが、実態はヘリコプターマネーと言われるものでボスが占拠した食い残しが降りてくるのを待っているという状況なのだ。
これから世界の経済は間違いなくドミノ倒しになってくるだろうが、金を発行しまくるハイパーインフレでこの危機を乗り越えようとするだろう。
だが、それはサル山をつくるだけだ。
「プロレスビジネス」で書いた構造的欠陥という言葉をワシは使ったけれど、これがそうじゃないかと考えている。
もっともっととエサを占拠するのは、今に始まったことではなく貨幣が発明されたときから始まった人間の悪癖で、この悪癖を持って発達したのがグローバル経済なわけで、ようは「取り合い」の歴史だ。
転売ヤーはエゲツないと皆が批判するが、批判しながらも基本は転売ヤーと同じモデルで成り立っている。
さて、こういうふうにゲームの理屈が見えてくるほど、プレイヤーとして生きていくのがアホらしくなってくる。
ワシらはエコノミーというゲームのプレイヤーでいたいのか?
それとも人間という生物として生きたいのか?
※たとえば、ワシの知り合いに金めちゃ稼いで年金もらって遊んでるジジイがいるが、楽しそうに見えるがどこかで人生の暇を持て余しているようにしか見えない。
それはワシの色メガネつーやつだろうと思っていた。
が、この手のリタイヤ組の勝ち組にはなんとなくなりたくないような気がする。ワシは死ぬまで仕事していたいが、それはプレイヤーでいることを望んでいるんではなくて、生き物としての本能的な衝動ではないかと最近感じる。