【自分は言葉である】
ブックオフで。ダニエルキイスの「アルジャーノンに花束を」を買ってきた。SFの古典で名作である。
ぼくはいつも思うのだけれど、本の文体というのは人に憑依する。今書いてるこの文体がワシではなくて、ぼくなのもアルジャーノンが憑依しているからだ。
村上龍なんかも憑依しやすい文体を発する一人だ。最近読んだのでは「マーダーボッドダイアリー」なんかもそう。これは、SFなんだが文体が非常にビジネス文章のようなモノローグになっていて、主人公のアンドロイドは自分のことを弊機という一人称を使う。
さて、アルジャーノンに花束をでは、主人公のチャーリーは知能指数が60だっけ?ぐらいしかない。パン屋さんで雑用をしているが、同僚にからかわれていることも理解できない。
だから、いつも幸せで友達がたくさんいると思っている。そんなチャーリーが医学的な被験者として知能があがる手術を受ける。
この小説はチャーリーがモノローグで語る一人称なんだが、知能指数が低い状態では、感じもまちがえているしごじもおおいのだ。(←こんなかんじ)
それが、知能が徐々にあがっていくにつれ文体がしっかりしてくるし難しい単語も増えてくる。このへんの演出がこの小説の魅力の一つなんだが、アルジャーノン文体が憑依されたぼくも、小説の文体が洗練されてくるにつれて同じように文体が変わってくるのだ。
これはおもろい現象だ。
もしかしたら、僕らの意識なんてものはかなーり外部からコントロールされていて、実は自分の頭からでてきている考えなんてものは、ほとんどなくて、無意識に憑依されているものからでてきているんじゃないだろうか?
さらに、ぼくは前から思っていたんだけれど、僕の少し上のいわゆる全共闘世代の人は、どこか思考の底に「同じ考えの人と連帯する」というようなものが横たわってるような気がする。
ぼくらの世代はもう少しセンシティブで、「俺は俺は」と内面を探求し始めるメンタルを持つように思える。
僕は世代で人を語ることは極力しないのを心がけているのだが、それでも心が成長してゆく若いときにふれる情報、世間の出来事やニュースやその時に流行ったドラマなんかが、心の底に憑依し続けているのではないかと思うのだった。
そういや、昔 メーリングリストでぼくは女性言葉を使うことを思いついてしばらくネカマみたいな言葉づかいをしたことがある。
特に深い意味などなく、たんなる悪ふざけだったのだがリアルでもネカマ言葉が口をついてでてきたり、なにより恐怖を感じたのは、自分一人で考える時の言葉もネカマ言葉になってきたことだった。
だもんだから、ネカマ言葉遊びは封印したのだが、この時「言葉は人に憑依するのだ」ということを実感をもって理解したのだ。
マザーテレサが、言葉に気をつけなさいーそれはやがて行動になるからと言ったらしいが、いや、言葉はいつか自分になるのではないかとぼくは思うのである。