#情報の多様性とは #人の意識が表面上では繋がっていない理由
昔、FREAKSでラブホマップというのを作った。とうじはまだネットもなかったし、Google mapなんてなかったからな。
つか、スマホどころか携帯もなかったんだが、どうやってビジネスしてたんだろう?ワシの必需品はポケベルならしてくれる留守電。なんかめちゃ値段高かったような。
ポケベルなるたびに電話ボックスに駆け込み、家の留守電聴いてた。
いや、そんな話はどうでもよくて、マップシリーズは無限にアイデアがでた。ラブホマップの次はネズミとりマップ。心霊スポットマップ。へんな人出没マップ。
FREAKsはキワモノばっかだが、ほっとかこがわでは、フツーで探検マップ、かつめしマップ、銭湯や公園、あと何だっけ?
昔話マップは、Google MAPでも無理だ。場所を特定するモノと話の紐付けがされてないから。
その意味で制作中断してる「ありがたやマップ」なんてのも、Google mapでは無理。
そんなことを庭カフェしながら考えていたんだが、基本的にこういうワシのつくるマップって、フィルタリングするものと、そこに情報を上書きするものにわかれる。
ラブホマップは、フィルタリング。余計な情報を捨てることで必要な情報が浮かび上がる。
ネズミとりマップは、もう少し高度で人の口コミを集約したもの。
昔ばなしマップはさらに高度で、おおげさに言うと邪馬台国を特定するみたいな編集作業が必要になる。
つまり、フィルタリングした上で情報を上書きする。
考えたら、これらのマップづくりの工程って編集作業の訓練にもなっていたんだと思う。
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世界は情報のことである。
例えばワシの頭の中には「ぐらんどきゃにおん」という情報はあるが、見たことも行ったこともないので経験はない。
ワシにとっての世界は身の回り数メートルのことでしかない。が、その数メートルでも地面を見たらアリが這っていたり、空を見上げれば鳥が飛んでいたりする。
数メートルでも世界を正確には捉えてはいない。
つまり、世界はワシの個人の身体によってフィルタリングされているのだ。
人間は見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞こえない。
なぜなら世界のすべてを処理できる身体(脳)を備えていないし、仮にそんなことできてもそこに何かメリットがあるとは思えない。
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おそらく世界最古のマップは「ここで獲れる獲物マップ」だろう。あの山の向こうにはガゼルの群れがいつもいるとか、あの草原にはウサギの巣穴がいっぱいあるとか。
ワシなら、狩とかせずにそんなマップ1枚とウサギを交換してただろう。
こういう時代においてはマップというのは生存戦略になる。また、「ここからこの方向にこれだけ進めば、こんな場所に辿り着ける」という未来を描くことでもある。
人個人の身体は世界にフィルターをかけて情報のノイズを減らし、特定の情報を浮き彫りにする。
世界から真実だけを抜き出すことは不可能であるから、他者というフィルターがいる。
すべての色メガネの色を混ぜ合わせると白になる。(ちなみにインクの場合は黒になる)
#メディア論 #オールドメディアは実はニューメディアだった #ネットはオールドメディア以前の世界
昨日書いたサリンの話。
自分でも気がついてなかったが、サラッと重要なこと書いてた。ネットワークの本質のとこ。
これをいま流行りのオールドメディア、ニューメディアという文脈で言い直してみる。
オールドメディアにおいて情報の経路は一本道だ。
事実を編集してメディアにのせて流し、多くの人はそれを受け取る。
このシステムが発明される前は、どうだったかと想像すると事実を見た(経験した)人が、隣の人に話し、それを聴いた人が別の人に話すという、ネットワーク方式だったはずだ。
そこには、事実と同時に個人の感想(お気持ち)が入り込むし、「そうであってほしい」ように事実は曲解される。
これでは混乱するばかりだ。なにしろ、人によってバラバラなこと言っていて何が本当なのかわからなくなる。
だから、オールドメディアが発明された。これが報道の始まり。つまり、オールドメディアはニューメディアとして登場した。
当然、多くの人に伝えることができるからそれを利用しようとする者がでてくる。その関所としての責任が出てくる。
最近叩かれているフリーの記者というのは、メディアの責任を監視する役割もあったはずだ。多くのメディアが流す情報を精査し、「こんな見方もあるよ」と疑問符をつける。
それが、どこにも所属していないフリーの記者だったはずなのだ。
ところがいつからだろう?
メディアのどこもかしこもが、フリーの記者のように振舞い始めた。
事実に感想や憶測やらを混ぜ込み、ノンフィクションというものがたりを語り始めた。「事実は小説より奇なり」というが、事実だという触れ込み小説を捏造し始めた。
なぜかというと、そのほうが人気が出るから。
Youtubeで陰謀や予言やリアルに見える映像をながしたほうがアクセス稼げるのと同じだ。そら、殺人を流したら皆見るわな。
ちょっと脱線するが、医学も昔は「人体解体ショー」から始まった。すりばち状のステージで死者を解体する。それを貴族が見るわけで、これは当時最大の娯楽という側面があった。
前にも指摘したが、いわゆるニュースと今言われている番組はすべて「ニュースバラエティ」である。
にゅーすというのがアナウンサーがたんたんと原稿を読み上げるものを言う。そこに、アナウンサーのお気持ちも感想も入り込んではならないという暗黙のルールがある。
司会者や雛壇芸人のお気持ちが入るのはすべてニュースバラエティで、久米宏や田原総一郎の討論番組がミックスされて出来上がったバラエティだというのを忘れてはいけない。
で、いま。
オールドメディアは、ニュースバラエティが事実を小説にように報じ始めた。フリーの記者は事実を暴くというよりもその物語にはまり込んでいる。
これは単純に一部の記者が頭が悪いだけの話だというのは記者会見みてたら手に取るようにわかる。(これはほんと、びっくりするぐらいだ)
そこでSNSを利用して、フリーの記者のように振舞い始めた人たちが登場する。
早い話、権力をもった人間はそもそもの使命を忘れ、それに気がついたものが新しい表現を始めるという、ただそれだけのことだ。
では、ワシらはどういうメディアを選べばいいのか?
答えは簡単で、自分が気に入ったものを見てればいいのだ。
そもそも世界中の事実を知ることなんて不可能だ。
誰かに選んでもらって、咀嚼してもらって、一行のとぴっくすにしてもらうしかないのだ。
そしてそこには必ず、誰かのものがたりが入り込んでいる。
ネットのSNSは分断を呼び込むという人がいるが、もともと世界はカオスの海で、情報を一本道にしたことが異常なことだ。
真実はうわさと区別がつかない。これが真実だ。
オールドメディアはそれをジャッジしてきた。今はSNSがジャッジしようとしているが、ワシらはそれをジャッジする。
問題なのは、誰が正しいかではなくて、どう「対話」し、どう「議論」するかのお作法である。
#サリンから30年。 #おうむとは何か
あの日、ワシは県立病院の待合室にいた。
待合のテレビに人がうわーって集まっていくのでなんだろうと思ったら、東京の地下鉄の事件を報道していたのだ。
始まったんだなーとボンヤリテレビの画面をみていた。
前年の年末12月はまるまる一月、生まれて初めての入院で過ごした。毎日1キロずつ痩せていった。たぶん死ぬなとおもった。
退院して仕事もせずにテレビゲームの女神転生してたら地震が起きた。高速道路が横になってた。
数日後に現地入りした。明かりが何もない暗闇というのを生まれて初めてみた。人が車にはねられて数メートル吹っ飛んでいった。
で、サリンだ。
数ヶ月に間に生まれて初めての経験を波状的に浴びると、わりと神経が麻痺する。サリンの映像を見て「はじまったな」と思ったのは、たぶんそのせいだ。
あの時はじまり、30年たってもそれはまだ終わっていない。
マスコミは、常にあの事件を報じる時に「社会VS」で報じる。これは県知事をめぐる報道でも同じ。
誰かと誰かが戦っているという、ものがたりの構造でしか世の中を捉えない。けど教団の信者の中にはTBSの社員もいたし、警察官もいた。ヤクザもいたし、インテリもいた。
教団が一枚岩なんてことなく、情報統制もされていない。
これはネットワークの特性だが、情報の経路が統制されていないと「真実とうわさの区別がつかなくなる」のだ。
だから、「皆知ってるけど皆信じていない」状態になる。
「木を隠すのに森に隠した」ようになり、見えてる真実に誰も近寄れなくなるのだ。
教団は、どこからどこまで信者なのかという線引きも曖昧なまま拡大している。排他的に報じられるが、逆なのだ。
で、怖いとこがこれが教団側、麻原の計画などでは無いところだ。麻原はたんに子供のように思いつきを口にしていたに過ぎない。
いわば、人の心の底にある意識していない動機が、場に集まったという点で、テロ組織や反体制勢力とはちがう様相になっている。
ここんとこ財務省解体デモがブームだが、つばさの党の黒川くんが、拡声器を片手にこのデモに参戦?していてこんなことを言ってた。
「このデモの主催者は誰なんだよ」
するとデモに参加してた人たちがいう。
「みんなでーす」
黒川くんはちょっと困って、「誰かに聴いたから皆集まってるんでしょ?で、その誰かは誰かわからない。そこに危機感を皆さんもってください。財務省は解体したほうがいいよ。それは俺も同じだ。けど、だれが主催者かわからないとこに違和感持てよ!」
ホリエモンやひろゆきも、デモしても意味なくね?と言って炎上してたらしい。(ワシは直接見てない)
が、たぶん黒川くんと同じ違和感からの発言なんじゃないかと思う。
中心がよくわからない大きなうねり。噂と真実がモザイク的に散りばめられた輪郭のよくわからない現実。誰かではなく、みんなで動く組織。ふにゃふにゃした殺人や、殺人未遂。
30年前のあの時はじまり、30年たってもそれはまだ終わっていない。
マンデラエフェクト
#マンデラエフェクトの恐怖
#リアルが侵食されている
#ネットが意識を汚染する
人間の記憶なんてのは実にいい加減だとは知っていたし、勘違いなんてしょっちゅう起きてるし、けど実際に遭遇するとかなり怖い。
どうやらXでも話題になってる大山のぶよさんの件。随分前にお亡くなりになってたんじゃないの?というカキコが多発。ワシもそう思い込んでたんで、ニュースの第一報聴いたときは?ってなった。
この現象をマンデラエフェクトという。リンク先のForbesの記事がわかりやすい。
これ、20xx年にネットで誰かが「なんか最近おかしくね?ハッキリわからんけど時間がおかしい気がする」と書いて、多くの共感を得た。
違和感の正体は、主に次の3つだ。
自分の記憶と現実が微妙に違う。
現実感がなんとなく薄い。
世の中があまり変化してなくて時間だけが進んでいる。
これに実際体験したちょっとおかしな現実のエピソードがくっついている。
このマンデラエフェクト現象にSF的な考察が乗っかったり、スピリチュアル的な考察が乗っかったりして、ネットならではの都市伝説が形成されているらしい。
たぶんこの手の思い込みや勘違いは、今までもあった。
だが、「あれ?違ったっけ」で済んでた。
ところが2000年代にはいり、この違和感をネットで共有することができるようになった。
それで生じたのがマンデラエフェクトではないかと思う。
ネットの記事は時系列がバラバラに届くことが多い。最近はfacebookも時系列には並んでなくて、イイねのアルゴリズムで並べ変えられる。
Xは災害時にこれでは困るということで、オプションで時系列表示に切り替えできるらしいが、どれでもリツートされればこれは崩れる。
ニュースが人から人へと口コミで伝わるネットでは、事実よりも人が語ったことのほうが事実だ。
人の記憶は、後からどんどん書き加えられることで、それが事実になる。本来は、自分が経験したこと、自分に関係があることが時系列に並ぶ。
だが、今やニュースのほとんどが自分と関係のない希薄なもので埋められている。
先に書いた、「最近現実感が薄くね?」もこの影響だろう。
時間の流れの違和感も人間がリアルで触れる量の情報をはるかに超えてネットから入ってくる。それもほとんどが自分と関係のない情報。そこで体内の時間の流れがバグってきているとかんがえられる。
しかし、理由はわかってもやはり信じられない。たしかに記憶では大山のぶよさんは、数年前にお亡くなりになったという記憶が感違いとは思えない不気味さは残る。
ということは、世界自体は実にあやふやな記憶の上に構築された共同幻想で、現実感がないのが本当なのだ。
どこかで戦争が起きていて、空かミサイルが降ってくる。それは単なる情報として入ってきた事実で、身体で経験したことではない。映画のシーンやゲームの世界となにも変わらない。
逆にミサイル落ちてる現場の人は、朝からコーヒー飲みながらスマホでこんなこと書いてるやつがいることが現実とは思えないだろう。
これではまるで「胡蝶の夢」だ。どちが夢を見てるのかわからない。
たしかにそう考えると、ワシらの意識はつねに輪郭が曖昧でつねにここにいない。数分すらここにいない。つねにどこかへフワフワと漂い出している。
身体は自動操縦されたオートマタであり、意識は身体を認知せずにどこかに遊び歩いているのだ。
誰かの訃報の乱れならまだ騒いで済むが、もっと大きな幻想に世界が巻き込まれるんじゃないかと思うとヤバイ。
人類はもしかしたら存在もしない何かに殺されるのかもしれない。
#Gの遺伝子を持つワシはマモルームにやられて鼻水ダラダラ、クシャミ連発、だもんで思考力が限りなくゼロ。だもんで工夫せずに脳から直接カキコする輪廻のしくみの話。



メビウスの輪が蛇のように絡まった宇宙モデル。名前ないんで仮にメビウスユニバースとしよう。
なかなか厨二病全開のネーミングでカッケー!
さらにこれがワンとか、アカシアとか、アカシックレコードとか、そういうのを外から眺めたものというのも心踊る。
まあ、これをfacebookに書いてるぐらいだと炎上もコメントも少ないけど、Youtubeあたりだとスピ系の人や流行りの量子系の人が出てきてやーこしーことになる。
これは、ワシだけが見たビジョン。
他の人にもこのビジョンが見れる、見せれることができれば、それは「事実」となり否定(アンチ)はなくなる。
この構図はまさに、前にカキコした「缶の立体を捉えることができるか否か」と同じだ。
人は視覚では2次元しか見えない。
つまり○か□。
その戦いを終らせ、もう一つ上の3次元に至るには、意識の力がいる。
相手はなぜそう見えているのか?正しいのはどっちだ?
自分だけのもので共有できないことをものがたりという。
「他人のものがたりを信じると同時に疑い、自分のものがたりも信じると同時に疑う」必要がある。
これはまさにワシの座右の銘の「私は嘘しか言いません」そのものだ。
メビウスユニバースの輪は、メビウスの輪を繋いでまた捻ったものでできている。表と裏が同じ面にくる、さらにその輪が他の輪に干渉する形になっているのはそのことを表現している。
ワシはもちろんこのユニバースモデルを信じているし、疑ってもいる。何度も頭中で疑い壊し、また構築し壊しを繰り返すことで、3次元的に俯瞰(外から俯瞰)できる。
病院ICUで、止まったような時間にいるとき何度もこのモデルで遊んで時間をつぶした。ICUで思索した時間モデルについてはずーっと前に書いた通りだ。
だが、その時のカキコではメビウスユニバースについては書かなかった。どう書いたらいいかわからなったというより、頭おかしいと思われるからだ。
人は理解できないとき、頭がおかしいとか幽霊とか、そういう「理解できないアイコン」というレッテルを貼り付けて安心する。
実際、ワシは幽霊を信じない。
誰にも見えないからだ。
「あなたの後ろに守護霊が見えますよ」と言われても、ワシに見えなけば、言われ放題で相手の意のままにコントロールされてしまう。
世の中はこういった一方方向のベクトルだらけだ。
これを壊すのがいわゆる議論であり、論破ってやつ。
けど相手の見え方を破壊しても実態は見えない。
アップデートとか言ってるクセにそれではアップデートできない。
2次元を3次元に押し上げるためには、否定と肯定が必要なのだ。
スピ系ではこれをアセンションとか言うが、そんなにたいそうなものではないし、上位下位の概念に縛られているアセンションはそもそもありえない。
今から数十年まえ、ウチのわんこアールがプリプリとンコするみたいにウォーふやえーすやレイドを産んだ。
そのとき、うぉーふやえーすやレイドの死も同時に決められた。
生と死を同時にアールは産み落としたのだった。
生きてるものは必ず死ぬ。これが対消滅したなら、アールは一体何を産み落としたのだろう?
喜びと悲しみ?これも対消滅できる。じゃ、時間?
生まれて死ぬまでの時間。アールはプリプリと15年ほどの時間を産み出した。
これが捻れた螺旋の輪だ。まっすぐ歩いていけばいつか裏返しになり最初の場所、生と死が始まった場所にたどりつく。ウォーふの螺旋の輪は、エースの螺旋の輪と縁をつなぎ、レイドの螺旋の輪と縁を繋ぎ、ワシの螺旋の輪と縁を繋ぐ。
これを外から見るとユニバース(宇宙)になる
#対話と会話と石丸構文やらホリエモン
アウトプットして、「人に見てもらう」ためには当然工夫が必要だ。だが、この工夫と作為は別物である。
あるYoutube。意識とは何か?みたいなネタを扱ってる。
サムネで興味持って見てみると、喋ゃべくりにクセがありすぎー!滑舌悪いんで聞き取れんしー!
しばらく我慢してたが、途中でイヤになって見るのをやめてしまう。
サムネは外注しているのか?凝ってるけど、それより大袈裟な喋りや、滑舌の悪さで再生回数回ってないとは本人は思っていないらしい。
動画が伸びないのは、サムネのデザインだと思っているようで、「消される前に見て!」とか「削除覚悟で」とかのコピーが増えていく。内容はあんまり関係ない。ほとんどダマし。うーん。
本でも、多くの人が途中で投げ出してしまうのは文章に読ませる工夫がないのが多い。
なんかのリサーチで見たが、本を最後まで読む人は、たしか半分もいなかった。(うろ覚え)
で、これも内容とは違う問題だ。(そもそも内容に興味ないと買ってすらいない)
とくに翻訳が下手くそで読みにくい本とか、自己啓発本とかは自分語りの部分が多くて何読んでるんだろ?と冷めてくる。
不思議と、こゆ本に限って表紙とか帯に著者が腕組みした写真使ったり、ひろゆきとかホリエモンとかオリラジ中田とかが推薦書いてる。
読ませる工夫は型である。作為は目立つことなので工夫ではない。型がなければいくら内容がよくてもカタナシなのだ。
ワシは広告屋でデザイン屋であるから、そのへんのことがひといちばい解っているのだが、自分のこととなると一向に工夫してない。
つか、ほらこの文章もだらだら脳から直接流し込んでる。
だから、この時点でもうクソ長い。仕事なら書き直しである。
この工夫をするプロがデザイン屋とか編集屋とかだ。
なんでワシは自分の文章やイラストに工夫しないか?たぶん、じゃまくさいから。それよりも、スピードあげて脳から直接外に出してしまいたい。
そに時期の気分や体調によるが、ワシは投稿数がハンパない。実はこれでも抑えてるほう。
編集せずになら、いくらでも書ける。ペーパーバック作家ぐらい書ける。むしろ、キーボードでなくてiPadで打ってるので指が先に疲れる。ハンモックで使えるキーボード誰かつくれ。
文書を書くというのは壁打ちテニスに似ている。
つか、壁打ちテニスしたことないけど。
文章って、何度も自分の書いた文章読み返しながら書き進めていくやん。この作業自体が「対話」なんよ。
つまり、脳の中の独り言ではなくて対話。
対話はつっこみがはいる。そのツッコミがあるから、自分の意見は破壊されまた再構築され、新し意見が生まれる。
よく、会話と対話の違いを聞かれることがあるが、会話の目的がコミュニケーション、つまり仲良くなることにあるのに対して、対話は自分の見ているもの、考えているものと相手の見ているもの、考えているものを擦り合わせて、別の次元に至る目的がある。
ワシがよく言う「缶を上から見る横から見る」の話だ。
丸く見えるか、長方形に見えるかでケンカしていても、なにも生まれない。
対話ある議論で、2次元を超えた3次元の缶の形が立ち上がる。
そう、「私は正解でもあったが間違ってもいたし、相手もまた然り」である。
ここで書くワシの文章は、何かを伝えるものでもなければ、本によくある知識や考えを伝えるものでもなく、上から目線のスピ系や啓蒙の類でもなく、ただ「一人で対話している記録」なのだ。
ワシは会話(コミュニケーション)をしたいのではないから工夫をせずにダラダラと垂れながらしているのだ。
人はいつも□か○でケンカしていて、口が上手いやつが勝つ。自分が正しいと言う。
で、□派と○派に分かれてしまう。
これでは3次元の缶の発見には至らない。
今の世の中で言われている能力主義(メリトクラシー)には、この発想はない。
勝つか負けるかで考えているから能力主義や、頭がイイとか悪いとか言い出すのだ。
ネットでバカとか老害とか言ってる人はマウントとってるだけの能力主義者で対話で新しい世界をつくることができない。
対話は、能力主義も学歴も関係なく、むしろ自分と違う人と対話するほど新しい世界の発見になる。
極端な話、犬や猫とも対話は可能だ。
いま、世の中にそういった対話ができる場は皆無だ。
