昔むかし、罵詈雑言って映画が加古川にやってきましてね。
この映画、電柱すべてにポスター貼ってたんじゃないかというぐらい宣伝してた。
しかも、ポスターごとに手書きのなぐりガキみたいなのが貼ってあってその文章が皆違う。
内容はさっぱりわからない。ホラー映画のようでもあるし、感動する映画でもあるようなことがなぐり描きには書いてある。
どうも全国この手法で行脚してたみたいだ。
内容はさっぱり覚えていない。なんかのドキュメントだったかな?加古川では監督が挨拶にでてきたんだが、内容がつまらんと怒った観客がつめかけてパトカーきた。
「いや、それも含めての映画というじゃ、ショーだわ」と当時のワシはどこかでレビュー書いた。
あれから何十年?「罵詈雑言」の頃はネットなんて無かったか、あっても一部の人だけのツールだったんで、情報は口コミか、マスコミしかなかった。
ワシが「罵詈雑言」を面白いとおもったのは、マスコミではなく、また口コミでもなく、電柱にポスターという手口だけで市民会館を埋め尽くしたことだ。
しかも、映画の内容に関する情報皆無でだ。
ワシもミニコミやら広告やらで当時から食ってたんで、そこに面白さを感じたわけ。
だから、宮崎監督の「どう生きるか」に興味が湧く。
映画内容よりも、なぜ無宣伝という方法をとったのか?にだ。
宮崎さんの性格的に考えて、「スラムダンクの手法を真似た」ということはありえないだろう。また、「どうせ俺の名前で客はくるだろう」というほど業界ナメてはいないのはあきらかだ。
では考えられるのは、どこかこの手法が映画の内容を補完してるんじゃないかということ。
考えたら、ワシらはいつも、大袈裟にいうと生まれたときから、コマーシャルに人生を色づけされ続けてきている。
考えたらこれ、ヘンだ。けれど、そういう文化はあくまで人生のエクステンションであって、文化が人生の主役だとは誰も思っていない。
けど、実際は文化が主役であって実人生のほうがエクステンションだともいえるんじゃないか?
(これは、ここで何度も書いてる「ものがたり」論にも通じる)
そして、今はSNSである。
今やマスコミはSNS前提で作られている。混沌とした社会の潜在意識とも言えるSNS時代になり、昭和生まれの奴等は改めて、コマーシャルと人生について、あるいはものがたりと人生について、ちょ待てよ?とその違和感に気がついたわけだ。
つまり、
「ワシら、どうやって生きてたんだっけ?」と宮崎氏も気がついたんじゃないか?
で、「君らどう生きるねん?」と問いかける。