turuya

西鶴アーカイブ

いろんなところに書いてきた文章のアーカイブ

世界は編集されている

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子供の頃。幼稚園ぐらい?まだ小学校にはいってなかったように思う。

 

壁の模様を見つめていたら、そこにいろんな物がいることに気がついた。

見つめていたのは砂壁みたいな小さなドットで構成されているような壁。


アニメの主人公やら、ロボット、宇宙船、宇宙人、鳥や犬や猫やありとあらゆるものがその壁の中に住んでいた。


あまり壁を見つめているので母親は心配になって何を見てるんだと聞いた。ワシはそのつど、ここに何がいるとか答えたらしいが、母親がいくら見てもそこには壁しかなかった。


種明かしをすると、小さなドッドで構成された壁の模様は、どんなものでも描くことができる。つまり自分の見たい物がそこに映し出されるというわけ。


つまり、今で言うドット絵だ。壁のドットには大きさという制約がないから初期のドラクエよりも精密だ。


たんなるインクのしみに、意味を見いだすロールシャッハテストと同じ原理。


これがつまりは「編集・デザイン」だ。創作するのではなく、抜き出すこと。


たとえば、「祈り」が在るのか無いのか?そのテーマで雑誌をつくるとする。まずは取材だ。いろんな人に話を聞き、祈りを探す。


心がけるべきは、なるべく客観性をもって取材すること。でないと目が曇る。色めがねをかけていては真実なんか見えない。


ところが、在ると信じると在る事例が集まる。無いと思えば無い事例が集まる。


客観的にみようと俯瞰すればするほど、逆に自分の意識の影響を受けてしまうことにあるとき気がついた。


なんて皮肉なことだろう。

この原理も、砂壁にいろんなものが現れるのと同じだ。


人にとっての世界とは、目の前にあるのではなくて自分の脳の中にあるのだ。


ガキのときに壁にみたドット絵も、遠くから俯瞰でみればみるほど、絵を構成するドットの数が増えるから、より多くのものをみることができる。

同じことだ。


人は見たいものを見るために、見たくないものを見ないように編集して世界を認識している。結果、目の前に見たいものが現れているかのように錯覚する。


この事実に気がついたときは、愕然とした。今でこそ「私は嘘しか言いません」なんていってるが、いや、本当にこれだと嘘か真実かなんてわからない。編集することで、嘘も作り出せるし、真実もつくりだせる。なんてことだ。


この頃からワシは編集やデザインに「ものがたり」性を加えようとしはじめた。ものがたりは、嘘だ。だが、そこに真実が写しだされることがあるんじゃないか?そんなことを考えたからだ。


ある日、どこの寺か忘れたが(たぶん書写山?)で、木彫りの仏ができあがるまでの荒削りの丸太が展示されているのを見た。


そのとき衝撃を受けた。仏像の制作行程は、なんのへんてつもない丸太の「いらない部分」をノミで削って捨てていくことで仏の姿を浮き上がらせる。これはワシは壁のドットから自分が見たいものを浮かび上がらせたのと同じだと気がついた。


丸太の中には、最初から仏が居るし、悪魔もいる。仏師は、それが誰にでも見えるように編集しているにすぎない。嘘から誠というけれど、それがこの工程なのだ。


足し算という作意ではなく、引き算という編集だ。


人の脳もじつはこの引き算で成長してゆく。生まれたばかりの子供の脳は大人の何倍もの神経細胞がパンパンに詰まっている。それが成長することで、使われない細胞は間引かれていくことで、それぞれに特化した脳細胞へと変容してゆく。


これは多様性の原理でもある。すべての可能性から間引かれてひとつの未来が立ち上がる。


足し算ではなく引き算なのだ。

(※量子力学に観測者問題というのがあるが、ここにも奇妙な符合がある。これはまた書く)


このことに気がついてから、ワシは編集・デザインは別の角度から光をあてて今あるものと違う姿を浮かび上がらせることと定義しなおす。(いつもいう缶を上から見るか横から見るかの話だ)

 

別の角度からみること=編集であり、それを誘導する設計=デザインだ。


こう考えてみると、あの壁を見つめていたときから、編集とかデザインの不思議さにワシはとりつかれたんだろうとも思える。むしろ職業というよりも研究に近いかもしれない。


ワシが好んで使う「私は嘘しか言いません」というこの言葉は、もしかしたら宇宙の本質なのかもしれない。