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西鶴アーカイブ

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【干渉しない】

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何回か前に伝説の整体師のこと書いたやーん。

 


その人がワシの指先にふれただけで、ワシの心臓が人と違うことを見抜くと言うマジックのような技見せられて、その時ワシの身体の中に病気が宿ったってやつ。

 


(ワシの心臓は電線が切れていて心電図の波形が他の人と逆むいてる。生活にまったく支障はないんで病気ではなくて個性だとも考えられる)

 


あの時は本当にマジックにビックリして、この人に直してもらおう、とすら思ったのだ。

 


が、よくよく考えてみたら実にワシはそれまで健康だった。他の人と違うということでパニクり、個性が病気だと思い込んでしまったのだ。

 


いちお言うとくけど、ワシの健康の定義は、今、とくに身体について心配なことなく生活できていることだ。

 


最近は、瞑想ウォーキングと名付けたウォーキングとランニングを続けているが、これも健康のためというよりも、身体の中に心配が宿らないようにしてるわけ。

 


地震の心配が宿らないように非難用品準備しておくのとおなじ。

(安心すれば、在ることにも無いことにもフォーカすしない。ポジティブもネガティブも関係ねーよ)

 


ついでに言うとくけど、お金にもこれは言えることで、未来の心配のためにタンス預金してる人はいつまでも蓄える続ける。これも心配が宿ってるからだ。

 


そもそも心配だから始めたことなのに、逆に心配がいつまでも宿ってる。

 


これでは、まるで「家族のために仕事してて、気がついたら家に帰ってさえいなくて、家族は皆んな出て行った乙!」みたいじゃね?

 


タケシの漫才のネタ、「健康のためなら死んでもいい、平和のためなら戦争もじさない」と同じだ。

 


話を戻す。

 


伝説の整体師に直してもらうのをやめたのは、このことに気がついたから。ワシの身体のことは、やはりワシが主導権持ちたいやん。

 


伝説の整体師はたしかに凄いんだろうけど、ワシの身体について責任を負うのはワシしかいないやん。

 


たとえ、神さまが目の前に現れても、神さまは凄くはあっても「アドバイザー」でしかない。常に責任はワシにある。主人公はワシなのだ。責任を明け渡すことなんて不可能だ。被害者になるわけにはいかないのだ。

 

 

 

前に書いたモノローグなコンサルとかの人たち、ワシ用語で「裸の王様マーケティング」な人たちは、被害者をつくり、それを救済するというステレオタイプな物語に生きている。

 


だから、被害者を作って信者にするのが彼らの仕事だ。

だから、あなたのダメさをあぶり出すし、自分がいかに凄いかをひけらかすし、常に干渉してくる。ひつこい広告のように。勧誘する宗教のように。

 


人はその人のジンセーにおいては主人公であるが、他人のジンセーにおいては常に脇役なのだ。これは変えられないし、変えてはいけないものだ。

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問題ってのは実はテーマだとは何度も書いてるし、言ってることだ。

 


このテーマというものは、見つかると次のテーマが立ち上がってくるし、見つからないといつまでも同じテーマが立ち上がってくる。

 


実はこのテーマこそが、生きてるという螺旋のゼンマイのネジを巻いてるんだが、まあ、それは前にも書いたし、また言い方変えて書くわ。

 


ようするに、テーマを引き受けて一緒に考えることはできるが、自分のものとして責任をとることはできん。

 


あなたは、わたしではないし、わたしはあなたではないからだ。

 


ワシはよく「干渉しない」という言い方を口グセのように言うが、正確に言うと「干渉することはできん」のだ。

 


これはアドラーのいう、「馬に(ロバだっけ?)水のある場所は指し示せても水を飲ませることはできない」に似ている物理的に無理なものは無理ということだ。

 


前にある場所で有名なカリスマ的な医者(外科医だったかな?)とお話ししたとき、その人が同じようなことを言っていた。

 


「結局、命はその人が抱えるものなんで、いくら手術が上手くいってもダメな時はだめなんですよ。ブラックジャックが医者は何のためにあるんだーって叫ぶシーンあるけど、本当にそう思いますね」

 


この後、ブラックジャックの話になっちゃったんで、彼はなぜ医者を続けているのかを聞けなかったのが今から思えば残念だ。

 


よく、だれか他の人がつくったチラシを持ってきて、「これどう思います」と聞いてくる人がいるが、ワシは批判も批評もしない。なんで?って聞かれるんで、じゃまくさいから「金もらわんと添削しないよ」と言うんだが、実は「干渉しない」ためだ。

 


それで満足してるなら、なにも問題ない。問題あるなら、仕事する。

自分から無理やり問題をほじくりだして、マッチポンプなことはしない。

 


(ちな、マッチポンプとは、マッチでひをつけて、火事だ火事だと騒いで消化して感謝されること)

 


実はワシ、自分を売り込む営業はまったくしていない。

仕事始めて、30年以上になるけどまったく営業していないのだ。

 


それ言うと皆、嘘だと思うみたいだし、信じられんというけど、実は自分でも信じられない。

 


それどころか、ワシの仕事を完全に把握してる人っていないといってもいい。

 


皆てきとうに、印刷屋だとか、コンサルだとか、イラスト屋だとか、プリント屋だとか、カメラマンだとか、売れない小説家と思ってる人もいたなあ、ひどいやつはヒモだという奴も、そんな風にカテゴライズしてるだけ。

 


けれど、ずっと仕事あるし、大儲けはしてないけど30年無借金でやってるし、なによりも飯くえてるし、3時間ぐらいしか仕事せずに、庭みてたり本読んでたりする時間もある。

 


やってることは、宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩みたいで、困ったる人に「ワシにまかせれ!」と肩をさしだすが、デクノボーなことにオンブもできずに、ただ手を引っ張って歩くだけ。

 


30年以上もやっていて、今更ながらこれってタービュランスだと気がついた。

 


タウ.タービュランス。ワシ用語なんだが、航空機や車のエンジンで使われる用語で、簡単に言うと乱流のこと。二つのベクトルの風がぶつかることで起きる複雑系の乱流のこと。

 


世界はこのタービュランスという複雑系ネットワークにあふれている。

そんな中で、干渉しーひんということ決めて、なぜやっていけるかというと、たぶん「タービュランスから流れてくる力」からだ。

 


タービュランスから流れてくる力、これを縁という。スピ系の人のいうフワフワした縁とはだいぶ違うものだ。

 


ワシはただ自分の身にふりかかるテーマを研究しているだけで、(ここで書いてるようなことだ)そのテーマのひとつとして仕事も舞い降りてきているんだと思っている。

 


だから、自分の仕事をネットで「とあるご縁でこんな仕事しまぢたー」とか恥ずかしいことしーひんし、ダサい反響のなさそうなチラシに添削して仕事クデということもしないし、人脈づくりのパーチ言っても仕事と関係ないこと喋くってるしー、ワシこんな凄いデザインでけるでーとも言わない(できんしー)、つか、自分の仕事のホームページすら作ってない。(さすがにコレは、つくろうと思って早、数十年)

 


ただ、常に自分の命というらせんのゼンマイを巻き巻きしてはいる。

これがタービュランスから流れてくるもの「縁」をうけとることじゃないかと思っている。

 


まあ、このタービュレンスは、今ワシの抱える「月のサイクル3周目」のテーマだったりする。現在進行形の話なんで、またいずれクソ長い話を改めて書く。 (法華経の十如是はこのタービュランスの構造だ)