おもろないとは何か?
ここ数年はすげー本を読んでいて、たぶんジンセーで一番本読んでる。
ほとんど毎日、本を読んでたり、なんか文章を書いていたり、絵を買いていたりしている。
(これ、ほとんど仕事してるのとかわんねぇ)
ワンコが死んでから時間があまったことに加えて、コロナの時代に突入したのが大きい。
基本的に引きこもれない性格なので、これには自分が一番驚いているが、そうでもないと、またなにやらへんなこと考えついてやらかし、しんどくなるので、ブレーキかけながら生きているぐらいで丁度いいのかもしれない。
だが、あんまり座って本ばかり読んでいるのも身体によくないなと、ウォーキングを始めたが、まあ犬の散歩に比べたら屁のような運動量で、ひらき直って、身体重視ではなく思考重視の瞑想ウィーキングなるものを考え出し、あれこれ考えながら、あるいは考えずに歩くというのを実践している。
んで、最近いろんな本を読んでおもったこと。
本には上から目線の「ヲンドレラに教えてやるぜ」というものと、「私はこんなふうに疑問をもち、こんなふうに考えた」の2種類があるということ。
小説なんかは、ものがたりなんで後者だ。主人公が悩んだり、なにかイベントに巻き込まれたりしながら何かを得ていく。
学術書とかは、オモロイことに海外のものは前者が多いが、日本人が書いたものは後者が多い。本屋の平台にならんでいるビジネス書や自己啓発的の安物は、ほとんどが後者だ。
最近ぶいぶいいわしている編集者の手がける本も後者だ。
それらの本には、作者がたどってきた迷路は書かれておらず、A=Bというものしか書かれていない。
ワシが前から興味をもっていた前野さんは、記憶やら意識やらの研究者なんだが、なぜか最近は後者になってしまったようだ。
後者の書き方の本は、おもろない。内容には共感しても興奮しない。いわゆるアハ体験、(あっ!と気がつく体験)が得られない。
哲学者の國分功一郎氏の「暇と退屈の倫理学」がおもろかったのは、國分さんが疑問に思いそれを解決してゆくという追体験ができるからなんだと改めて思った。
海外の学術書も、やたら分厚くて、なぜか自分の生活について書かれている部分も多くて、ブログかっ!と突っ込みをいれたくなるが、これも追体験できるための「技」なんだろう。
ワシらは、答えを知りたいのではなくて方程式をしりたいのいだ。
考えれば、おおくの人に伝える文章はナラティブな構造を持つ。
ナラティブとは、物語のことだ。
「知識はたいまつ。
見えないから知らないから怖くて不安になる。
見えない道にあかりをともそう」
これは、ワシが書いたコピーだが、これもナラティブになっている。
この文章を書いていて気がついたが、座禅をやってた坊主とやってた禅問答は、答えにたいして自分で問いを考える問答だわ。
問いを考えることで自分の内部におりてゆくんじゃないだろうか?