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西鶴アーカイブ

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読んだ本のブックレビュー~愛と幻想のファシズムとコインロッカーズ~

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コインロッカーから生まれた主人公たちがダチュラで世界にケンカを売るコインロッカーベイビーズと、官僚や金持ちたちがテロを企てる愛と幻想のファシズム

 


コインロッカーのほうは、村上龍の独特の文体ークスリきめて、らりったような残虐で暴力的な疾走感にあふれた文体が心地よく、それこそ「文学」というものにダチュラと中指を突き立てているように感じる。

 


かたや、愛と幻想ーは村上の経済や世界のパワーバランスに関するインプット量に圧倒され、全然理解できないのに妙にリアルな感じがするものの、主人公たちの怒りのピントがいまいちボヤケている。

 


これは村上も、小説の中で描いていることで、それはそのまま小説のタイトル「愛と幻想のファシズム」に反映されているわけだが、なぜピントがあっていないのかを考えてみた。

 


それは資格の問題なんじゃないだろうか?

コインロッカーの主人公たちには、世界を破壊するに至る資格がある。

愛と幻想のエリートたちには、その資格が見えない。

 


もちろん一般常識的に、社会人的に、そんな資格は存在しない。

何があっても人を殺すのは悪であるし、犯罪であるし、そんなやつが社会に紛れ込んでいたら、家の中で閉じこもるしかない。

 


が、どうしてもこの「資格」というのは常に頭から離れない。

 


リアルな事件を見てみても、あべちゃんを撃った犯人には資格があるように見えるし、過去の事件を見ても資格があるやつとないやつにカテゴライズして見てしまう。(ただ、対象はずれているような気もする)

 


これはおそらく理屈じゃなくてワシの心の底にある何かと共鳴して起きている感情なのだ。

 


だから、何かの事件が起きたときはなるべくその情報から、特に犯人のおいたちやら感情やらに関する情報からは意識的に遠ざかるようにしている。引きずられるような気がするからだ。

 


数年前、西田さんの美容院に散髪してもらいにいったら、一匹の保護された犬が死にかけているところに遭遇した。

 


この犬は、生まれてからずっと狭い檻に閉じこめられて大人になった。その飼い主が入院するとかレスキューしてきた犬らしい。もちろん社会性なんかは身についていない。狭い檻の中の世界でたった一匹でまるで囚人のように、生まれてきたのが何かの罰のように餌だけもらって生きてきた。

 


その犬が死にかけていた。

 


ワシはそんな犬のプロフィールを聞きながら無意識に犬の頭を撫でようとして噛まれた。そして犬は息をひきとった。

 


手にあいた穴を唾で消毒しながら、お前には人を噛む資格があるとワシは思った。

 


もし、生まれ変わりがあるなら、次は人間に生まれ変わって人を殺しまくれよと思った。そして、死刑になってその次に生まれ変わったら、今度は幸せになる資格を得られるぞとその犬に語りかけた。

 


世話をしにきていたボランティアの人たちは「おいおい」という感じでどん引きしていたが、西田さんはだまってワシの独り言を聞いていた。

 


コインロッカーの主人公たちには資格がある。愛と幻想のエリートたちは資格がない。これはワシの深い部分に直結する倫理を越えた回路だ。

 


ワシにはアイデアが山のようにあって、その多くは企画書にまで落とし込んでいる。問題に対する答えみたいなものだが、たまにそういうことを誰かに喋ると「なぜ実行しないんだ?もったいない」と言われたりする。

 


中には、ワシのことをよく知らない奴が「ビジネスもジンセーも行動力だよ」と説教かましてくるやつもいたりする。

 


そのとき、いつも言うのが「そんな動機はワシにはない」だ。

誰かかわりにやってくれ。金がなくなって生きていけなくなったら、しかたなくその企画をマネタイズするだろうけど、生きていけるうちはそんなことに時間を使うぐらいなら、本を読んで思索することに時間を使いたい。

 


仕事でスタートアップの手助けをしたり、会社案内をつくることを何度もやってきたけど、いつもそこに資格を探そうとする。が多くはそんな資格なんかもっていなくて、ただしかたなくやってることに対しての言い訳しか見えない。

 


だから常にワシは嘘をデザインしている。ほとんどのデザインは嘘であるといってもいい。嘘をつきながら60年生きてきているのだから、まさに愛と幻想のファシズムに生きてきたわけだし、ワシの座右の銘である「わたしは嘘しかいいません」は、冗談の味付けをしているが結構本質でもある。

 


クラファンでも、スタートアップの資金集めでも、資格がないやつがたんなる企画を実現したいだけの遊びにしか見えない。だから、ロールプレイングゲームと同じようなやりかたが通用する。

 


社会的なイシューをでっち上げ、生活に足りないものを補充するのではなく、生活を拡張させるものを欲求にしたてあげるブランディング

国民の不幸を解決するのではなく、国民の幸せを追求しようとする政治。

それらはぜんぶ、誰かに植え付けられた幻想だ。

 


ワシらはそうやって、テッシュで鼻をかみながら環境について語り、お菓子を食いながら飢餓について語り、笑いながら貧困を語るのだ。