物語ミトコンドリア説
#人間観察とコーヒーと手巻きタバコ
仕事が煮詰まったら、いや煮詰まらなくてもここの喫煙室で一番でかいサイズのコーヒーを飲みながら、手巻きタバコを吸いながら、iPadで文章をかくのが好きだった。
不思議なことに外で文章を書いたり、仕事をしたりするほうが捗るのだ。
なにかで読んだが、ユーミンなんかもファミレスで歌詞をかくらしい。
石森章太郎も、仕事場の隣の喫茶店アマンダにネームをかきにいくのが日課だったらしい。
ほどよい騒音の中のほうが逆に集中できる。そんな人種は結構多い。
ワシもその一人で、事務所で仕事をしおているときも音はかかせない。
そんな人のために最近では「スタバの音」とかいうノイズだけの配信もある。
文章をうつのに疲れたら、ボーッとウィンドの外を見る。
いろんな人が歩いている。そんな人を見ながら「この人たちひとりひとりに、それぞれの生活があって、それぞれが人生の主役で、それぞれが意識をもっているんだろうな」と想像する。
そんな人間観察も楽しみなのだった。
今は、ビル全体が禁煙になった影響で喫煙室もなくなり、ワシの足も遠のいた。それどころか、コロナの影響もあり、またほとんどタバコを吸えるところもなくなり、外で茶をしばきながら文章をかくなんてことは皆無だ。
#名もないわき役たち
「哲学的ゾンビ問題」というのがある。誰もが聞いたことがあるだろう有名なテーマだ。自分と同じように他人にも意識があると証明することはできないというもので、他人の頭の中(こころ)を除くことはけっしてできないという事実を言ってる。
中国だとキョンシー問題になるだろうし、日本だと・・・あれ?日本だと幽霊問題?なんか微妙にニュアンスが違うな。日本には屍が動くというホラーは聞いたことないな?なんでだろう。
まあ、疑問は横に置いておいて話を進めると、タリーズのウィンドごしに行き交う人々をみている主役のワシには、他人は映画のモブシーンの役名のないわき役の人たちだ。
逆に、向こうから見てみるとワシはタリーズで茶をしばいている名のないわき役である。
そんな無数のドラマの主役たちが、この場所この時間で交差している。
これは考えたら不思議な気持ちになる。
昔、つるべが「ぬかるみの世界」というラジオ番組で「俺が見てないとき他の人は止まってるんやないかと思う」といっていたが、そう思う気持ちもわかる。
他人は哲学的ゾンビだと思うほうが感覚的には納得できる。
#人生は喜劇だ
タリーズで、不思議な人生の交差を感じたワシは、その日を「自分は主役ではなくわき役だ」と思いながら過ごしてみることにした。
仕事の打ち合わせも自分はわき役だと常に頭の中で想念しながらする。バイクを運転しているときも、誰かの目からみた自分を想像しながら走らせる。
スーパーで買い物してるときも、「ああ、あの人なんか食料いっぱい買い込んでいるけど一人暮らしなんかな?それとも家族が寝込んでいるとか」と他人の目でみた自分を想像してみる。
これが結構オモロい。
それに、なんていうかなぁ、こころが軽くなるというか、楽になるというか、「人生は喜劇だ」っていった人はだれだっけ?そんなふうに思えてくる。
そう、他人の目からみたワシ主役の人生なんてのは喜劇だ。
どう見てもサスペンスには見えないし、悲劇でもないし、SFでもないし、深刻なものでもない。カテゴリでわけるなら喜劇でしかない。
しかもそんなに笑えるほどのものでもなく、誰もわざわざ見るほどのこともない喜劇。どこか自分がこうだと決めつけて生きてる奴が、なにかにつけて大げさに考え行動するドタバタな喜劇というところか。
##自分が主役だと思う感覚はいつ産まれたのか?
「自分がわき役だごっこで」、自分の日常の喜劇を充分楽しんでワシはふと思った。
この自分が主役だという感覚はいつ産まれたのだろう?それに自分が主役であるのに、いやあるからこそかもしれないが、何かにつけ自分の感情には「元ネタ」、つまりテンプレートをなぞってるような気がするのだ。
そのテンプレートは、過去にみたテレビドラマやマンガや小説に影響を受けて真似しているように思える。
知り合いが病院でがんの告知をうけて思わず「ガーン」って言ってしまったと言っていたが、もちろんその人は医者を笑わせようと思ったわけではなく、真剣にショックだったらしいが、なぜか口からでたのは「ガーン」だったそうだ。
これもテンプレートが思わず出てしまったんじゃないかと思う。
高校生の頃、東京の日本短波放送の「ヤロうどもメロうどもOH!」といいう番組のスタジオに出入りしていて、そこのアナウンサーの大橋照子さんがケコーンでおやめになると番組内で発表されたときに、壁をなぐりつけて泣いてる奴がいた。
その光景を横目でみていたワシは、ちょっとしらじらしい気持ちになった。「いや、番組がつくりあげたコミュニティがなくなるのは寂しいけど、自分の拳から血がふきだすほど壁をなぐるか?」
これもテンプレートだ。なんかマンガやドラマでありそうなシーンじゃね?それを中二病さかりの年代なんで真似してたんだろう。「ガーン」のシリアス版だ。
思い返せば、そういうマンガやドラマをテンプレートにしたであろうシーンはよく見かけるし、自分もそういったクサイ演技をしていたような穴に入りたくなるような経験は多い。
#ワシらはドラマ世界に生きている
「千の英雄」(だったかな?)という本がある。
これは世界中の物語のストーリーを分析したらだいたいがそのルーツは神話にいきつきパターンに分類できるという話だ。スピルバーグとかがこの本に感銘したそうだが、彼の映画はまあストーリーの王道だわな。
日本人は神話といわれてもピンとこないが、ファミコン時代のドラクエなんかはその洗練されたものだ。今から思えば信じられないぐらいの少ないメモリに詰め込むためにおのずと洗練された神話のテンプレート集だ。
ストーリーもそうだが、主人公がとる行動、(演出?演技?っていうのかな?も)、だいたいがパターンだ。あまにも斬新な演出や演技だと見てる人に伝わらないからパターンをなぞるのだろう。
これは言葉も同じだ。どこかテンプレートな言い回しをしないと「伝える」という言葉の機能が失われる。
これらはみな、「自分が自分の人生の主人公である」という思いから発生している。
自分が主役の人生においてのストーリーは何かほかのドラマに準拠してるし、行動は何かほかのドラマの主人公に準拠してるし、表現や演技も何かほかのドラマに準拠している。
神話が産まれた以降の太古から、ものがたりはワシらの脳に寄生してあたかも細胞の中のミトコンドリアのように共生している。それがワシらの意識のプロトコルなのだ。