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西鶴アーカイブ

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【山里亮太のクズの本懐〜努力の正体と自信の正体〜】

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自信が無いというあーたへ、ここだけの話やけど、本当のこと言うわ。
 
 
 
中身あってのパッケージってことを前回書いた。
 
その時、思ったのが仕事を何十年も持続させてる奴は、まずパッケージを作ってそのパッケージにあう中身を必死になってつくってるよなーと言うこと。
 
そんなこと考えてたら、ちょうど南海キャンディーズの山ちゃんがケコーンしたつーんで、なんかロングインタヴューがネットに上がってて、ちょっとワシの考えと偶然シンクロしててオモロかった。
 
説明しよう。タイトルは、そおやねぇ、「努力できるやつなんてどこにもいない。努力の正体」つーのはどう?
 
話を進める。
 
なんでも山ちゃんは、2006年から地獄ノートという反省ノートというのをつけていて、そこには毎日仕事での反省を走り書きしているらしいのだ。(妬みや嫉妬なんかも書き連ねているから地獄ノートと本人は言ってるらしい)
 
もっとこういう返しのほうが良かったんじゃないか?こういうツッコミできんかったとか、そんなことをズーッと書き連ねているらしい。
 
 
インタビューアーは「すごい努力ですねえ」といったんだが、いや、努力できないクズなんでやってるんですよと山ちゃんは言う。
 
このインタヴューも、そんなノートつけてるって言うと、「それなのにそれだけの喋くりかよ」と言われるから、言われないように必死になれる。
 
そんなことを言ったのだ。
 
そのロングインタヴューのあと、ケコーン会見見たら相方のシズちゃんが「クズでも努力してたらエーこともあるね」と言ってた。
 
シズちゃんに言わせると、山ちゃんはすぐに天狗になるらしい。ケコーンしたら、そんな天狗の鼻をへし折る役目から降りられる。あとは優ちゃんにバトンタッチ。そんなようなことを言ってた。
 
これって、山ちゃんのクズと他人から見たら努力に見えるものの正体が見え隠れしてるなーとワシは感心したのだ。
 
山ちゃんと同じくワシも努力なんてもんはカケラも信じていない。
 
いや、もしかしたら努力の人はいるかもしれんが、ワシは無理。
「全国努力しない人選手権」したらベスト10に入れる自信はある。
 
実際、努力したことは人生で一度しかなく、いつも追い込まれてやってる。
 
誰かが困るから、誰かにケツ拭いてもらわんといかんから、誰かが悲しむから、そんなふうに追い込まれてないと、自分のことだけだと、たぶんボーっと暮らしてる。基本クズなのだ。
 
だが、クズな自分を隠すために見栄もはる。
 
徹夜して仕上げたしごとなのに、「いやーオモロイゲームにハマっちゃって」と嘘をつく。
仕事早いねと言われて、実は5時間かかってるのに、チョロいもんだという顔をする。
 
自信ありげに見えるのも、この手の誤魔化しと同質のもので、本当は自信なんて全然ないのに、テンション上げて天狗になってるだけなんだというのが、本当のところだ。
 
天狗状態でハイテンションで仕事をこなして、その後はドロドロに反省する。
 
いままでやった仕事で後悔のないものは一つたりとも無い。まんぞくなんて天国よりも遠い。
 
で、いつもそんな天狗状態に少しでも近ずくように、いや、近ずくんじゃないな、取り繕うのほうが正確だ。
とりあえず取り繕うために、考えて、勉強して、なんとかやっている。
 
常にパッケージはワシの本体よりも一歩も二歩も先を歩いている。
努力じゃなくて、必死なだけ。取り繕うのに必死なだけ。
 
そんな風に今までやってきた。
 
気がつけば「思えば遠くへきたもんだ」と後ろを振り返る。これが自信といえば自信。自分を信じるということかもしれない。
 
あくまで信じているのはパッケージのイメージングした自分ではなくて、追いつこうとする自分のほうだ。いつか来た道、知ってる道だ。だから自分を信じれるというより、道を知ってるというほうが正確かも知れない。
 
人はパッケージに合わせる形で中身をなんとか取り繕おうと必死になる。詐欺だと言われんように、誰かに迷惑かからんように。
それが、努力の正体じゃないか?
 
オサレするから美人になっていくんで、美人になったらオサレしようじゃないだろう。
 
そういえば、作家の村上龍は、女の子とセックスするために家を飛び出して一人暮らしをはじめたらしい。谷村新司は、モテたいがためにギターをはじめた。
 
これらの動機も、パッケージと言える。孔雀の羽みたいなもんだ。
 
が、彼らはパッケージに中身が追いつくように取り繕った。取り繕い続けた。パッケージを常に追いかけ続けた。
 
ホームグランドでのいいねに満足することなく、アウェイでパッケージを展開したからこそ、取り繕う必要に追われ続けたのだ。
 
パッケージという錯覚は自分のスキル以上の仕事を引き寄せる。
自信がないのに天狗になってるから、チョロいもんよと引き受けてしまうが、後悔先に立たずで必死になってやり終える。ヒイヒイいいながらやり終える。
 
この繰り返しだ。
 
ホームグランドでは、「すまんすまん」で済まされるが、アウェイでは命取りだ。誰もが化けの皮ならぬ、尻尾を捕まえてこいつは狐だと言おうと待ち構えているのだ。
 
そして気がつけば、何十年と言う日が過ぎている。よー、生き残れたなあとフト思う。
 
最近は、前回書いたような錯覚させるままで終わる奴が多い。
 
ヤンキー文化の錯覚させる文化をひきづって、口先だけ、ケンカしたことないのに強そうなふり、スピードでない爆音だけのバイクみたいなものを社会にでてもやってるオラついた奴がおおい。
 
これは、ホームから出ないからだ。パッケージだけで通用しちゃうから必死になる必要なんてなくて、錯覚の呼び込む小さなマーケットで生きていけるからなんだろう。「アニキ、いいね!」で満足してる奴らだ。
 
小さなオンラインサロン、小さなファンビジネスでは、何十年もたないものだが、最近はネットで情報の拡散がはやいので、一気に大きくなることはなる。
 
そこで高々と掲げられた天狗の鼻は、スキルが積み上がるよりも早く化けの皮が剥がされる。もって5年。早くて1年だ。
 
ソクラテス(だっけ?)が、自分のことを「ワシはアンタより、自分がバカだと知ってる分だけ賢い」みたいなこと言ったらしいが、似たようなことじゃないかと思う。