turuya

西鶴アーカイブ

いろんなところに書いてきた文章のアーカイブ

世界は編集されている

f:id:hotkakogawa:20221205064805j:image

子供の頃。幼稚園ぐらい?まだ小学校にはいってなかったように思う。

 

壁の模様を見つめていたら、そこにいろんな物がいることに気がついた。

見つめていたのは砂壁みたいな小さなドットで構成されているような壁。


アニメの主人公やら、ロボット、宇宙船、宇宙人、鳥や犬や猫やありとあらゆるものがその壁の中に住んでいた。


あまり壁を見つめているので母親は心配になって何を見てるんだと聞いた。ワシはそのつど、ここに何がいるとか答えたらしいが、母親がいくら見てもそこには壁しかなかった。


種明かしをすると、小さなドッドで構成された壁の模様は、どんなものでも描くことができる。つまり自分の見たい物がそこに映し出されるというわけ。


つまり、今で言うドット絵だ。壁のドットには大きさという制約がないから初期のドラクエよりも精密だ。


たんなるインクのしみに、意味を見いだすロールシャッハテストと同じ原理。


これがつまりは「編集・デザイン」だ。創作するのではなく、抜き出すこと。


たとえば、「祈り」が在るのか無いのか?そのテーマで雑誌をつくるとする。まずは取材だ。いろんな人に話を聞き、祈りを探す。


心がけるべきは、なるべく客観性をもって取材すること。でないと目が曇る。色めがねをかけていては真実なんか見えない。


ところが、在ると信じると在る事例が集まる。無いと思えば無い事例が集まる。


客観的にみようと俯瞰すればするほど、逆に自分の意識の影響を受けてしまうことにあるとき気がついた。


なんて皮肉なことだろう。

この原理も、砂壁にいろんなものが現れるのと同じだ。


人にとっての世界とは、目の前にあるのではなくて自分の脳の中にあるのだ。


ガキのときに壁にみたドット絵も、遠くから俯瞰でみればみるほど、絵を構成するドットの数が増えるから、より多くのものをみることができる。

同じことだ。


人は見たいものを見るために、見たくないものを見ないように編集して世界を認識している。結果、目の前に見たいものが現れているかのように錯覚する。


この事実に気がついたときは、愕然とした。今でこそ「私は嘘しか言いません」なんていってるが、いや、本当にこれだと嘘か真実かなんてわからない。編集することで、嘘も作り出せるし、真実もつくりだせる。なんてことだ。


この頃からワシは編集やデザインに「ものがたり」性を加えようとしはじめた。ものがたりは、嘘だ。だが、そこに真実が写しだされることがあるんじゃないか?そんなことを考えたからだ。


ある日、どこの寺か忘れたが(たぶん書写山?)で、木彫りの仏ができあがるまでの荒削りの丸太が展示されているのを見た。


そのとき衝撃を受けた。仏像の制作行程は、なんのへんてつもない丸太の「いらない部分」をノミで削って捨てていくことで仏の姿を浮き上がらせる。これはワシは壁のドットから自分が見たいものを浮かび上がらせたのと同じだと気がついた。


丸太の中には、最初から仏が居るし、悪魔もいる。仏師は、それが誰にでも見えるように編集しているにすぎない。嘘から誠というけれど、それがこの工程なのだ。


足し算という作意ではなく、引き算という編集だ。


人の脳もじつはこの引き算で成長してゆく。生まれたばかりの子供の脳は大人の何倍もの神経細胞がパンパンに詰まっている。それが成長することで、使われない細胞は間引かれていくことで、それぞれに特化した脳細胞へと変容してゆく。


これは多様性の原理でもある。すべての可能性から間引かれてひとつの未来が立ち上がる。


足し算ではなく引き算なのだ。

(※量子力学に観測者問題というのがあるが、ここにも奇妙な符合がある。これはまた書く)


このことに気がついてから、ワシは編集・デザインは別の角度から光をあてて今あるものと違う姿を浮かび上がらせることと定義しなおす。(いつもいう缶を上から見るか横から見るかの話だ)

 

別の角度からみること=編集であり、それを誘導する設計=デザインだ。


こう考えてみると、あの壁を見つめていたときから、編集とかデザインの不思議さにワシはとりつかれたんだろうとも思える。むしろ職業というよりも研究に近いかもしれない。


ワシが好んで使う「私は嘘しか言いません」というこの言葉は、もしかしたら宇宙の本質なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

【昭和後期マインド〜ダイコンフィルムの「帰ってきたウルトラマン、マットアロー1号発信命令」】

 

Amazonプライムダイコンフィルムの「帰ってきたウルトラマン、マットアロー1号発信命令」がアップされていた。

 

みていたら、なんか泣けてくる。いや、作品には泣ける要素は皆無だが、作品作ってるバックボーンを考えて泣けてくる。
青春してるなーって感じ。ワシはこの年代と同じ年なので自分とかぶる部分があるからなのだ。

 

知らん人に説明すると、1983年に開催されたSF大会にだされた8ミリフィルムによる28分の自主制作映画。シンウルトラマンが、アップされているのでその付録というか。おまけというか、でアップされたんだろう。

 

制作メンバーには、今も前線で活躍するそうそうたるメンバーが名前を連ねる。これは彼らが学生のときにつくった自主制作だ。

Amazonプライムの作品紹介には、若き才能が集結し、つくりあげた云々とかのテンプレな紹介文が踊るが、リアルタイムで知ってるワシとしてはちょっと違う。

 

ワシはこのへんの奴らを、ヲタクの意識高い系だと認識していて、ワシも彼らの影響をどこかで受けている。

当時はそういうのが流行だったのだ。今では大企業のリクルートもそう。仲間うちでわいわいと「社会人ごっこ」をしていたら、気がつけば本気になっていて、気がつけば会社つくっていて、気がつけばそれで飯をくっていた。そんな感じ。

 

ワシもそう。いつ、どこから本職になったのか自分でもよくわからない。

 

ダイコンフィルムは、数年後ガイナックスという会社になって「王立宇宙軍オネアミスの翼」というアニメをつくるが、バンダイから億という金を引っ張り出す。

このニュースを聞いてから、ワシは大きな案件の仕事は「ちょっと騙してくるか」と気合いを入れるようになった。たぶん、彼らもそんな感じだろう。

 

若い頃は、隙あれば大人の事情で回ってる商業界に自分のやるたいことをねじ込んでいく。つまり、人の金でとことん遊ぶ。やがて月日がたち大人の事情の商業界の中心に自分がいることになる。

それでも、若い頃に癖になってる隙あらばは抜けない。なんとか折り合いをつけながら生きているのだが、誰かがうまいぐあいに騙すことに成功したのをみて、「いや、俺も」とやっているいうちに、今に至る。

 

たとえれば、自分の顔の前に人参ぶらさげて走る馬みたいなもんだ。
常に満足していなくて、常にあきらめていて、常にできあがるたびに劣等感に満ちあふれ、ゆえにまた仕事している。

【明石市長暴言問題と能力と責任問題】

なんか脳の病気でね、「言ってはいけないことを叫んじゃう」というのがあるらしい。脳のスパーク、いわゆるてんかんの亜種らしい。

たとえば生放送でちんこ!とか叫んじゃうらしい。


これ、本人には結構辛い病気だと思う。なにしろ、見た目は健常者だから、そういう病気だとは見られない。

けれど、そういう病気の認知度が上がれば、世の中は結構寛容になれるほどには、理論的だったりする。


市長の暴言は、どこまでが暴言でどこまでが方言でどこまでが気質なのか?という問題はあるが、ようするに受け取った側が暴言だ!傷ついたー!と騒げば、暴言になるという曖昧さを表している。


これは市長の問題ではなくて、どこにでも転がっている「事故要因」だ。


ワシなんかは、おねちゃんに「おっ!今日の香水ステキやん」と無意識的に言っちゃうから、セクハラに気をつけないといつどこで事故るかわからない。


不快だと言われると一発アウトだし、その境界線を引く主導権は、こちらにはまったく無い。


明石の市長の能力は、いわずもがなだが、ざっくりと言うと忖度しないということだろう。


まずは公共施設やら商店街への補助金やらをカットして子育て関連に全フリする。そのことで、人工増やして税収も増やし、増えた分でカットした分を取り戻してゆく。


このアジェンダの付け方が実に計算的で、また他の首長にはできないことだ。文句を押し通すメンタルが必須だろう。


暴言を吐かずに、ちゃんと説明したらいいじゃないかという意見もある。が、これも境界線を引く主導権は相手側にある。


いくら丁寧に時間をかけて説明しても、相手が理解できないと言えば説明できていないことになる。


最初に書いた病気の寛容度は、相手の気持ちよりも障害という不変性に立脚する。病気だから、本人には責任が無い。


なら、能力とこの責任はトレードできないものか?

できないのだ。なぜかしらんが、できないのだ。


だから、誰も猫の首に鈴をつけなくなる。

ワシらは宇宙服着てでも人と会うべきだった

仕事の打ち合わせを事務所でした。


なんか最近はメールとかばっかなんで久しぶりだ。

んで仕事と関係ない話もするわけ。


少年野球の監督やってることとか、こんな子供がいてこんなふうに指導したとか、こんな仕事を今やっていて役所とこんなことでもめたんだとか、そんな話だ。

 

受けた仕事とは直接の関係はない話なんだが、そんな余分な話からだんだんと「その人」の人物がだんだんと浮き彫りになってくる。

 

この余分がないと、受けた仕事はたんなるマーケティング的にタダシイ仕事にしかならない。

マーケティング的にタダシイ仕事は、人事的にタダシイことをして、財務的にタダシイことをして、広告的にタダシイことをして、経営的にタダシイことをしていれば安定する。

 

なにがタダシイことなのかは、本やにいけば山ほど教科書はある。

 

が、そんなタダシさは「たんなる使用人」であってバイトしてるのと金額の規模がちがうだけの話だ。タダシサに使われているなら、なんのために起業したのか、なんのために企画したのかという本末転倒問題にぶちあたる。

 

さっそくワシはこの余分の部分の延長としてこの仕事の絵をかく。
題して「なにもしない戦略」だ。
「けっこう難しいけど、これでやらないとそもそも意味なんやん」ということでその人と盛り上がる。

 

メールや、オンラインではこうはならない。
メールやオンラインでは、たんなるランサーズ案件、発注する→受けるにしかならないのだ。

 

どんな仕事でもワシはいつもチームだと考える。チームとは、互いにその人物像がわかっていないと組めない関係性に根ざしている。
顔も知らない奴と野球なんてできるわけないし、作戦なんか組めるわけない。

 

そおいや、ワシは今の仕事を始めたときから「印刷や」に営業にいったことはない。普通はみな、印刷屋や広告代理店やらから仕事をもらうが、ワシの場合はいつも直受け。クライアントからしか発注を受けなかった。

 

コンサルの人から仕事を受けるときでも打ち合わせは必ずついていって直接話す。

でないと仕事はできない。今もそれは変わらない。

 

が、最近はそういうのは昭和のやり方だと思っている若いやつが多い。
いやいや、だからタダシイやり方しか世の中にないんじゃないかと思うが、経験したことがないことは基本わからないのだ。

 

企業の内部でも、余分なことは昭和のやり方として切り捨てられている。
そんな企業の仕事はインプットとアウトプットだけでなりたつ、計算機のようだ。どこにも人の気配を感じれない。

 

これで病まないほうがおかしい。

 

コロナでいっきにオンラインが加速したが、んなもん宇宙服きてでも人とあって打ち合わせするべきだ。

おもろないとは何か?


ここ数年はすげー本を読んでいて、たぶんジンセーで一番本読んでる。

 

ほとんど毎日、本を読んでたり、なんか文章を書いていたり、絵を買いていたりしている。

(これ、ほとんど仕事してるのとかわんねぇ)

 

ワンコが死んでから時間があまったことに加えて、コロナの時代に突入したのが大きい。

 

基本的に引きこもれない性格なので、これには自分が一番驚いているが、そうでもないと、またなにやらへんなこと考えついてやらかし、しんどくなるので、ブレーキかけながら生きているぐらいで丁度いいのかもしれない。

 

だが、あんまり座って本ばかり読んでいるのも身体によくないなと、ウォーキングを始めたが、まあ犬の散歩に比べたら屁のような運動量で、ひらき直って、身体重視ではなく思考重視の瞑想ウィーキングなるものを考え出し、あれこれ考えながら、あるいは考えずに歩くというのを実践している。

 

んで、最近いろんな本を読んでおもったこと。

 

本には上から目線の「ヲンドレラに教えてやるぜ」というものと、「私はこんなふうに疑問をもち、こんなふうに考えた」の2種類があるということ。

 

小説なんかは、ものがたりなんで後者だ。主人公が悩んだり、なにかイベントに巻き込まれたりしながら何かを得ていく。

 

学術書とかは、オモロイことに海外のものは前者が多いが、日本人が書いたものは後者が多い。本屋の平台にならんでいるビジネス書や自己啓発的の安物は、ほとんどが後者だ。

 

最近ぶいぶいいわしている編集者の手がける本も後者だ。


それらの本には、作者がたどってきた迷路は書かれておらず、A=Bというものしか書かれていない。

 

ワシが前から興味をもっていた前野さんは、記憶やら意識やらの研究者なんだが、なぜか最近は後者になってしまったようだ。

 

後者の書き方の本は、おもろない。内容には共感しても興奮しない。いわゆるアハ体験、(あっ!と気がつく体験)が得られない。

 

哲学者の國分功一郎氏の「暇と退屈の倫理学」がおもろかったのは、國分さんが疑問に思いそれを解決してゆくという追体験ができるからなんだと改めて思った。

 

海外の学術書も、やたら分厚くて、なぜか自分の生活について書かれている部分も多くて、ブログかっ!と突っ込みをいれたくなるが、これも追体験できるための「技」なんだろう。

 

ワシらは、答えを知りたいのではなくて方程式をしりたいのいだ。

考えれば、おおくの人に伝える文章はナラティブな構造を持つ。
ナラティブとは、物語のことだ。

 

「知識はたいまつ。
見えないから知らないから怖くて不安になる。
見えない道にあかりをともそう」

 

これは、ワシが書いたコピーだが、これもナラティブになっている。

 

この文章を書いていて気がついたが、座禅をやってた坊主とやってた禅問答は、答えにたいして自分で問いを考える問答だわ。

問いを考えることで自分の内部におりてゆくんじゃないだろうか?

【会話していてイライラする原因とデジタル断捨離と瞑想】

 

思考の本質はどうも座標軸らしい。


言葉というのもたしかにマンダラートの構造になっている。

 

英語表記の住所みたいなもん。
ここは「本町」です。
本町は「加古川町」です。 
加古川町は「加古川市」です。 みたいな感じ。

 

日本の住所表記は、この逆だ。

英語はGoogleアースで上にあがっていく感じで、日本語は寄っていく感じ。
人間が神の視点に近づいていくのと、神の視点が人間に近づいていくのとの違い。

この階層のレイヤーは結構重要で、とくに他人との会話には相手と同じレイヤーにいないと会話が成り立たない。

 

レイヤーのどこにいるかは、その時に短期記憶に居座る事柄で決まるというのがワシの仮説。

あれもこれもとタスクで頭がいっぱいの時は、下層のレイヤーにいるし、短期記憶の領域が空に近いときは上層のレイヤーにいる。

 

だから、ワシの場合、どうでもいいことはすべてメモに書く。はなから覚えようとしない。未だに郵便番号覚えていない。短期記憶はすべてここに書いてるような思考に使いたいから。

だから、心配事とかは嫌い。短期記憶に居座るから。自分の生命に危機が迫るときにすぐに行動できるように短期記憶に心配事は居座る。

 

これはもう、そういう身体のしくみだからどうしようもない。

台風がくるなんてのもそうだし、身体のどこかが痛いとか、身体が動かないとかもそう。あと食欲性欲海水浴な。これらは短期記憶から追い出せないから、下層のレイヤーから上層のレイヤーに自分を置けない。

 

つまり、視座が高くならない。俯瞰ができない。ということになる。

もちろんそれでも構わない、というかそれでなくては生活できない。

 

瞑想というのは、このレイヤーの移動をスムーズに行う訓練だ。

レイヤー移動は、筋肉みたいなもんで鍛えていたらよく動くが、鍛えてないと動きが鈍い。

上にいったり、下にいったりすることを普段からやっておくと、動きやすい。

よく座禅を組んでいて目は半眼というが、これも理にかなっている。まったく目を瞑ってしまうとセンサーが働きすぎて集中できない。

集中できないとは、外の世界が気になるということだ。
(SNSはその典型だ)

 

目を開けていたら、常に情報が飛び込んでくる。

だから情報を極力しぼるがゼロにはしないというのが重要なのだ。

ちなみに「自分と向き合う」とは、自分を他人として見るという水平の座標軸なんで、垂直の座標軸とはまた違う方法になる。

丸くなる

f:id:hotkakogawa:20220913141417j:image

たこの心身問題を経営論として読んでみたら、また新たな発見がある。

 


どういうことかというと、たこの脳は足に8つ、本体に1つ存在していて、足はそれだけで本体の脳の判断をまたずにアクションできるという部分を組織の命令系統に当てはめて考えてみるわけ。

 


ここまででピンと来た人は多いと思うが、この前お亡くなりになった京セラの経営哲学の「アメーバー経営」がまさに「たこ」なのだ。

 


アメーバー経営を言い出した頃の稲森さんは、(2000年頃?)かなりラディカルでおもろかった。が、前にも書いたがお亡くなりになる前は、なんか小学校の道徳の教科書みたいなことをいっている。

 


ワシが思うにこれはアメーバ経営が陥るセクショナリズム※や、そこからの葛藤を自身が仏教にヒントを求めた結果なんだと思っているが、はやい話、「一周まわってスタート地点にもどってきた」ということだと思う。

 


セクショナリズムとは、たこの足が互いに競争をはじめ全体の統率がちれなくなること。アメーバー経営にも結局は中央指令的なヒラエルキーが必要じゃんということになってしまう。それを回避するには、人としての目的意識などがいるやんというのが稲森氏が仏教に答えを求めたということ。

 


この頃、稲森氏とたもとをわけた某会長は、別の答えを模索するが結局「3世代先の未来をかんがえれ」という進化論的をヒントにした未来型思考にまでしか到達できなかったが、これも「一周回った」ということである。

 


このへんをワシは稲森氏や某会長に突っ込みいれたかったが、まあ、しゃーない。

 


話がそれた。

 


話は変わるが、前野隆司という慶応の教授がいる。

 


この人の本「人はなぜ心をつくったか」を10年以上前に読んで、ワシはとてもびっくりした。

 


何を書いてあったのかすっかり忘れたが、これは覚えていないということではなく、ワシが考えていたことに似すぎていて、もう融合しちゃってるからだ。

 


もともと、人工知能か何かの研究してたんじゃなかったかな?人の記憶とかのメカニズムも調べていた。「自分なんてものは無い」なんてワシが言いそうなこと書いてる。

 


それ以来、この人の本は目に付けば読んでるんだが、最近はウェルビーイング(幸せって何?)の研究をしていて鎌倉だっけ?でまちづくり的なこともしていて、だからだろうか、最近だした「幸福論」は以前のラディカルさが感じられず、先にあげた稲森さんのような感じなのだ。読んでいてとても退屈なのだった。

 


たぶん、この人も一周回っちゃったんだろうと思う。

 


ワシは前野さんと同い年であるが、自分ではまだまだラディカルだと思っている。

 


だが、ワシのことを昔から知る数少ない人のひとりであるらりほうは、ワシとあうたびに「編集長はまるくなった」というから、まあそうなんかも知れない。

 


稲森さんはビジネスの塾で、前野さんはまちづくり系でと、一般の人と接しているので「難しいこといってもわかんねー」ということから戦略的に一周回ったんじゃないかと思う。

 


それは、丸くなったという言い方もできるが、あきらめたに近いんじゃないかと思う。(もしかしたらそれはワシの願望もはいっているのかもしれないけど)

 


人はひとりでは生きていけない。それは社会がつくりだした長所でもあるが短所でもある。

 


社会が誕生したので進化が足踏みしているのだというのはワシのラディカルな部分がささやく確信的理屈ではあるが、そんなこと炎上するからほとんど言わない。

 


たぶん、そんなこと気がついてる学者もやまほどいるだろうが、まあ言わないし、研究のしようもないので心の中にとどめたままだろう。今の世の中、炎上してくっていけるのはユーチューバーぐらいで、いちいち反論していたら研究なんかできないのだ。

 


いい人でないと世の中に認めてもらえない。これをヲタキングの岡田くんは「いい人戦略」といっている。

 


だから、稲森さんも前野さんもいい人になったんだろうと思う。

 


だが、本当は彼らは、議論したかったんじゃなかろうか?

まったく別の角度から、事象を解析する他人の目を欲していたんじゃないだろうか?それが年齢があがるとともに神様あつかいになり、誰にもわかるように言葉を選び、研究するから理解される哲学へと変わっていってしまった。

 


まあ、あったこともないんでワシの妄想でしかないが、そんな気がする。

 


そういや、稲森さんの道徳みたいな話でこんなんがある。

 


「相撲は土俵の真ん中でとりなはれ」