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西鶴アーカイブ

いろんなところに書いてきた文章のアーカイブ

夢のお告げと稲森哲学の単純さとコンサルの複雑さ

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巨大な建造物の中にいた。

出口がまったくわからない。

 

どうやら、仕事で校正をもってきてここにいろらしい。だが、もう用事は終わったようだ。

 

人は大勢いるのだが、まだメンテナンス時間だということで、皆いそがしそうにオープンの準備をしていて話しかけることもできない。

 

しばらくふらふらとそんな準備をしている人達の働き方を見物していたのだが、そろそろワシも外へ出なければならない。

 

しかし、いたるところのドアは施錠されていて出られない。うろうろしすぎて道にも迷ったようだ。

 

ワシは、ここが夢の中であることを知っている。朝はやくに起きて、本を読んでいて2度値してしまったのだ。そしていきなりこの巨大な建造物の中で目覚めた。いや、夢の中だから目覚めてなくて、現れたというほうが正しいんだろうけど、感覚としては目覚めたというほうがピッタリだ。

 

誰かに頼んでドアをあけてもらうしかないかと、暇そうな人間を探してうろうろした。皆、あまりにも準備にいそがしく手を止めさせるのが申し訳ない気がした。

 

通路に作業服をきたどこかの部署の管理者らしきおっさんがいた。 すいませんと声をかける。おっさんは、ちょっと迷惑そうな顔で、その先にダスキンの詰め所があるから、そこで聞いたらいいといいその詰め所まで案内してもらった。

 

その途中で、クロネコヤマトの制服をきた2人組のおねちゃんが見えたので、ワシは「ああ、あの人達についていきます」と管理者のおっさんにいい、クロネコのあとを追いかけて走り出した。

 

クロネコのおねちゃんは、一人はベテランでもう一人は見習いのようだ。 エレベーターの乗り込もうとしているので、ちょっと待ってーと大声で呼びかけてエレベーターに飛び乗った。体育館ほどのエレベータだった。 エレベーターの止まった先は、ゆるやかなスロープになっていて、その先に外への出口が見えた。

 

そして、目覚める。

 

今度は本当に目覚める。 ワシは分析をする。この巨大な構造物は社会だ。 皆が忙しく働く中で、ワシはひとり他の人と違う働き方をして、のんびりと社会を傍観者のように見ている。これはまったくその通りで、今の 状況をストレートに反映している。

 

そして気がつけば道に迷っている。 出口へのヒントはクロネコヤマトのおねちゃん達だ。 荷物を運びつづける彼女たちは、迷路のような巨大な建造物のあらゆる道を知り尽くしているいわばトリックスターだ。

 

どこにも属することはないが、どこにでも入り込める。 これは、ワシの立ち位置でもある。 ユング風に解釈すれば彼女たちはワシのシャドウとなるんだろう。

 

コロナ以降、あらゆるドアは準備期間で施錠され、今までのように自由にどこにもいけなくなってしまっている。だから迷ったのだ。クロネコのおねちゃん達のように、新しい地図が必要だ。

 

が、それにしてもなぜ2人いたのだろう?一人はベテラン、もう一人は見習い。ワシも見習いのようにベテランのあとをついてまわって地図を頭にたたき込むべきなのだろうか?

 

夢の解釈をしながら、コーシーを入れていてふと気がついた。

 

巨大な建造物は社会を投影したものではなくて、これは自分の身体内部なのではないかと思った。 漫画の「働く細胞」みたいな感じ。

 

2度寝してるのでまさしくオープン前だ。そういや、今日は10時になればクロネコヤマトが荷物をもってくる 。クロネコヤマトが納品物をもってくるからはやく起きないとという気持ちと、それでも目が覚めないという身体の状況がこの夢を見させた。 こちらのほうがピンとくるような気がした。

 

夢の解釈なんてものに正解はない。

 

ただ、2番目の解釈はいかにも平凡でつまらんように思える。 仮にワシが「夢分析」の看板をあげていて、この夢の解釈を依頼されたら、まちがいなく2番目の解釈は「没」で、1番目の解釈を相手に伝えて大金を巻き上げるだろう。 そしておそらく、客のほうも2番目の解釈よりも1番目の解釈に金を払うだろう。

 

人は、難解でいかにもそこに深い意味があるものに価値を見いだす。

 

この前、お亡くなりになった稲森さんも、「すべては必然で宇宙の意志だ」みたいなことを晩年は言ってた。 が、その稲森さんの最新の本には誰もが小学生のときに聞いたことのあるような言葉が書き連ねてある。 人は単純なことでは満足しない。そこに実は真理があることを無視し、複雑な誰もたどりつけない道を制覇することに価値を見いだす。そんな迷路なんてものはどこにもない。

【愛と幻想のファシズム 令和版】

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狩猟社の鈴原冬二は、北海道の温泉でワシにこういった。

 


「日本ほどインフラが整備されている国はない。だから日本をリースするんだ。これしかない。

 


政府は未だにGDPをあげるなんて夢みたいなことを言ってるが、誰がそれをあげる化という主語が抜け落ちてしまっている。

 


我が国は今や年寄りばかりがあふれかえって、あがるのはGDPじゃなくて医療費のほうじゃないか。

 


人工知能が働いてくれるなんて脳天気なことを言ってるやつもいるが、民間に降りてくる人工知能の技術はたんなる検索エンジンの高度なものでしかない。

 


だから、日本を海外の国にリースする。土地、インフラ、システムそれらをマンスリーマンションみたいにリースするんだ。

 


そしてベーシックインカムを導入する。生活できるぎりぎりの金額だ。これで皆が住宅をシェアすることになるから、老人の孤立という問題も解決できし、子供の数も増えていくだろう。

 


教育制度は、今のようなシステムにうまくライドオンするためのものではなく、システムを構築できる人材を育てるほうにシフトする。そう教育された子供たちは20年もすれば世界で活躍しているだろう」

 


ワシはこの男は本当に狩猟社の鈴原なのかと思いはじめていた。

彼の言うプランには日本人のアイデンティテイというものをいかにして維持するかが抜け落ちているような気がしたからだ。

 


鈴原はワシのその疑問に答えるかのようにこういった。

 


「そこで重要なのがデザインだ。西鶴さん、デザインの定義はなんだ?」

 


「ああ、まあそうだな。嘘をつくことだな。ほんとうに腕のいいデザイン屋は誰にも見抜けない嘘をつける」

 


「そうだ。デザインは嘘をつく。そして経営は嘘を本当にする力をもっている。デザインは、経営とがっちりタッグを組んでこそのデザインだ。この二人三脚こそ重要なんだ」

 


なるほど、それを聞いてワシは納得した。彼はやはり狩猟社の鈴原だ。かれは日本人のアンデンティティをデザインし直せとワシに言っているのだ。

 


ジワジワと身体が温まってきたのは温泉のせいだけではなかった。

思いっきり大嘘をかましてやろう。それを本当にするのは目の前のこの男の仕事だ。

 

読んだ本のブックレビュー~愛と幻想のファシズムとコインロッカーズ~

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コインロッカーから生まれた主人公たちがダチュラで世界にケンカを売るコインロッカーベイビーズと、官僚や金持ちたちがテロを企てる愛と幻想のファシズム

 


コインロッカーのほうは、村上龍の独特の文体ークスリきめて、らりったような残虐で暴力的な疾走感にあふれた文体が心地よく、それこそ「文学」というものにダチュラと中指を突き立てているように感じる。

 


かたや、愛と幻想ーは村上の経済や世界のパワーバランスに関するインプット量に圧倒され、全然理解できないのに妙にリアルな感じがするものの、主人公たちの怒りのピントがいまいちボヤケている。

 


これは村上も、小説の中で描いていることで、それはそのまま小説のタイトル「愛と幻想のファシズム」に反映されているわけだが、なぜピントがあっていないのかを考えてみた。

 


それは資格の問題なんじゃないだろうか?

コインロッカーの主人公たちには、世界を破壊するに至る資格がある。

愛と幻想のエリートたちには、その資格が見えない。

 


もちろん一般常識的に、社会人的に、そんな資格は存在しない。

何があっても人を殺すのは悪であるし、犯罪であるし、そんなやつが社会に紛れ込んでいたら、家の中で閉じこもるしかない。

 


が、どうしてもこの「資格」というのは常に頭から離れない。

 


リアルな事件を見てみても、あべちゃんを撃った犯人には資格があるように見えるし、過去の事件を見ても資格があるやつとないやつにカテゴライズして見てしまう。(ただ、対象はずれているような気もする)

 


これはおそらく理屈じゃなくてワシの心の底にある何かと共鳴して起きている感情なのだ。

 


だから、何かの事件が起きたときはなるべくその情報から、特に犯人のおいたちやら感情やらに関する情報からは意識的に遠ざかるようにしている。引きずられるような気がするからだ。

 


数年前、西田さんの美容院に散髪してもらいにいったら、一匹の保護された犬が死にかけているところに遭遇した。

 


この犬は、生まれてからずっと狭い檻に閉じこめられて大人になった。その飼い主が入院するとかレスキューしてきた犬らしい。もちろん社会性なんかは身についていない。狭い檻の中の世界でたった一匹でまるで囚人のように、生まれてきたのが何かの罰のように餌だけもらって生きてきた。

 


その犬が死にかけていた。

 


ワシはそんな犬のプロフィールを聞きながら無意識に犬の頭を撫でようとして噛まれた。そして犬は息をひきとった。

 


手にあいた穴を唾で消毒しながら、お前には人を噛む資格があるとワシは思った。

 


もし、生まれ変わりがあるなら、次は人間に生まれ変わって人を殺しまくれよと思った。そして、死刑になってその次に生まれ変わったら、今度は幸せになる資格を得られるぞとその犬に語りかけた。

 


世話をしにきていたボランティアの人たちは「おいおい」という感じでどん引きしていたが、西田さんはだまってワシの独り言を聞いていた。

 


コインロッカーの主人公たちには資格がある。愛と幻想のエリートたちは資格がない。これはワシの深い部分に直結する倫理を越えた回路だ。

 


ワシにはアイデアが山のようにあって、その多くは企画書にまで落とし込んでいる。問題に対する答えみたいなものだが、たまにそういうことを誰かに喋ると「なぜ実行しないんだ?もったいない」と言われたりする。

 


中には、ワシのことをよく知らない奴が「ビジネスもジンセーも行動力だよ」と説教かましてくるやつもいたりする。

 


そのとき、いつも言うのが「そんな動機はワシにはない」だ。

誰かかわりにやってくれ。金がなくなって生きていけなくなったら、しかたなくその企画をマネタイズするだろうけど、生きていけるうちはそんなことに時間を使うぐらいなら、本を読んで思索することに時間を使いたい。

 


仕事でスタートアップの手助けをしたり、会社案内をつくることを何度もやってきたけど、いつもそこに資格を探そうとする。が多くはそんな資格なんかもっていなくて、ただしかたなくやってることに対しての言い訳しか見えない。

 


だから常にワシは嘘をデザインしている。ほとんどのデザインは嘘であるといってもいい。嘘をつきながら60年生きてきているのだから、まさに愛と幻想のファシズムに生きてきたわけだし、ワシの座右の銘である「わたしは嘘しかいいません」は、冗談の味付けをしているが結構本質でもある。

 


クラファンでも、スタートアップの資金集めでも、資格がないやつがたんなる企画を実現したいだけの遊びにしか見えない。だから、ロールプレイングゲームと同じようなやりかたが通用する。

 


社会的なイシューをでっち上げ、生活に足りないものを補充するのではなく、生活を拡張させるものを欲求にしたてあげるブランディング

国民の不幸を解決するのではなく、国民の幸せを追求しようとする政治。

それらはぜんぶ、誰かに植え付けられた幻想だ。

 


ワシらはそうやって、テッシュで鼻をかみながら環境について語り、お菓子を食いながら飢餓について語り、笑いながら貧困を語るのだ。

 

 

物語に憑依される

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この呪いにかけられると、自分らしくいなきゃとか、自分は何がやりたいんだろうとか、今の自分は本当の自分じゃないとか、常に未来からプレッシャーをかけられるという病に侵される。

 

あげく、周りの人間は皆、観客で自分の引き立てる役割だと思い始める。

 

断言するが、どんなに歴史に名前を残したやつでもドラマみたいな生き方してない。

卑怯だったり、逃げたり、グズグズしてたり、調子にのったり、怯えていたりする。

 

ものがたりに憑依されていることが逆説的に言うと、「本来の自分を偽っている」のだ。だから常に不満が湧いてくる。

 

こんなはずじゃなかったと。

 

 

その他大勢の中で自分を叫ぶ

f:id:hotkakogawa:20220821121340j:imageネットでバイク用のマスクを物色してた。素材が冷感素材のやつがあったんだが、その商品のコメントに「このクソ暑いのにそこまでしてマスクするってバカ」みたいなカキコがあった。

 

最近こういう「自分の思いこみから抜け出せないよけいなお世話な人」が多い。

 

バイクのってみたらわかるが、フルフェイスのメットかぶっていてもアスファルトの粉塵やら排ガスやらで、ちょっと遠出して帰ってきたら鼻の穴真っ黒なのだ。だからこういうマスクは必要になる。

 

自分の範囲を越えることに遭遇したとき、「なんでなんだろう?」と考えずに「バカ?」として処理するのはたんなるバカなのだろう。

 

これらの人は疑問を持たないし、そこに仮説すらたてないし、だからバカになるんだろうが、それは別にかまわない。ワシとは関係のない話だ。

 

だが、それをわざわざ口にだしたり、カキコしたりするのがなぜなのかが解らない。

ホリエモンとかは、それが仕事なんでわからんこともないのだが、それを真似てるんだろうか?

 

たぶんね、これ人と会話したいの裏返しなのね。

そこで賛同を得たら「ああ、やっぱり俺の意見は正しいんだ、みんなと一緒だ」と安心できるし、反対意見があればそこで言い争うという「会話」に発展できる。

 

最近の漫画やゲームの定番ストーリーで敵と本気で戦って、やがて仲間になっていくみたいな、そんな物語を頭の中で描いているのかもしれない。

けど、残念ながら世の中そんなに優しくできてないのね。

 

路上ストリートみたいな番組も多いけど、あれも竹原やTOKIOがでてたガチンコをなぞってるだけのフィクションなんだけど、見てるガキんちょは本気にしちゃう。世の中あんなに優しくない。
だから、あーゆのファンタジーとして人気があるのね。

 

つまり、分母が大きいコミュニティの中では自分に「タグ」をつけんと見つけてもらえない。そうでないといつまでも大衆(モブ)のままだ。これね、昔からの出世の定番なのよ。

それは、たんなるゲームの戦略であって「生き方」とは異なるものだ。

そゆことをちゃんと教えてやらんとアカンと思う

【代表が勝手に喋る「あの世」の正体】

 

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誰も知らないものには名前がついてないだろ?逆に名前がついてるものは誰かが知ってるものだ。だから私たちは名前を重要だとする。

 

たとえば、お前の足下にあるその小石。いまは名前がないから小石としか呼べない。ちょっと、その小石に名前をつけてみるとする。石ちゃんでもいい。名前をつけたとき、その小石には魂が宿る。生きてる石、生石だ。

 

その名前が有名になって誰もが知ることになると、その石の位はどんどんあがり、神がかってくる。やがて、それは生石ちゃんじゃなくて生石神社と呼ばれるようになる。

 

そういう理屈で、私は君にたたり塚に名前をつけてやって意匠もつくってくれと頼んだわけやね。

 

代表は、細い目で笑いながらそんな屁理屈を述べるのだった。

 

私らは、人の認識下に世界をつくっている。たとえば、核でケンカ初めて人間が一人残らず死んだとしたら、私らの世界も消えてなくなる。誰も名前で呼ぶ奴がいなくなるから、無いのと同じだ。

 

人間は、あの世とかいうのはこの世よりも広い世界で空にぷかぷか浮いてる見えない空中都市か何かだと勘違いしているが、そうじゃない。

 

個人の認識のネットワークの上にあるのがあの世だ。

が、ある意味ではその広さは物理的なものを凌駕する。オンラインゲームには物理的な地平線がないのと同じだ。人の頭の中では宇宙の果てまで一足跳びだろ。

 

よく人が死んだときに「君は僕の心の中で生き続けてる」なんていう台詞あるけど、ある意味あれは正しい。というか、あの言葉私が昔、和歌詠んでたやつに教えたんやけどな。

 

だから、人間はある程度自分の生活が安定してきたら、歴史に名を残そうとやっきになる。歴史書の名前が乗ると、もうあの世では神になれるからな。悪名高きやつは邪神に、善良なやつは神に、いずれにしても消え去ることはない。

 

墓なんてのもそうだ。名前を残すのに一番確実なのは石に刻むことだからな。

 

ところが最近は困ったことにデジタル化の波があの世にも押し寄せてきている。いや、あの世がデジタル化されたんじゃないぞ。電子データなんてものは場合によっちゃ紙よりも儚い。

 

太陽フレアの大きいのがひとつこの星をなぜるだけで、消えてしまう。君も仕事のデータを飛ばしたことあるだろう。本当に跡形もなく消えてしまうんだ。

 

君のスマホにもワンコの写真とか動画が残っているだろ。ワンコの肉体は滅んでもそこに存在の証は残っている。すなわちあの世にワンコはいるということだ。

 

が、そのバックアップもない場合、スマホが壊れたらそれでおしまいだ。

イクラウドなんてのも何十にもバックアップとってるが、しょせんは形のないもの。儚いものだ。

 

代表は、そんなことをだらだらと喋り、ワシに次の指令を与える。

 

加古川の北に金を抱え込んだ大蛇がいる。昔は、金持ちになるとかで参拝する者も多くいたらしいが、最近は忘れ去られているらしい。金は、鐘で近所の寺の鐘を守って池の底に沈んだ大蛇が神になったものだ。

 

そこの御札をつくってほしい。

報酬の代金は、さっき「あの世」の理を君に教えたから前払いだ。

 

またしてもワシは「狐につままれた」ように代表の宿題にとりかかるのだだった。

読んだ本のブックレヴュー〜鬱屈精神科医占いにすがる〜

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本は出会いだと思っている。
本屋をぶらぶらすると、時々そこに「おいでおいで」をしている本がいる。

 

ぱらぱらと中身をみてみたり、装丁デザインを見てみたり、作者のプロフィールを見てみたりするけれど、持ち帰るか否かを決めるのは、結局のところ「一目惚れ」したかどうかしかない。

 

なぜか、Amazonだと「おいでおいで」がない。この正体は何なのかいまだに解らないが、たしかに本屋には出会いの場が形成されていると思う。

 

この本もそうして出会った。先月、ちょっと頭がおかしかったんだと思うが、何万円分も本を買い込んで、まだ積んであるからしばらく本は買うまいと思っていたのだが、一目惚れしたのでしかたない。まあ、文庫だし、安いしーと誰にしてるのかわからない言い訳をしながらレジに向かう。

 

著者は精神科医のお医者さんらしい。内容は日記風のもので、精神分析とかは出てこない。ただ精神科医らしからぬ悩みを抱え、なぜか自己分析せずに占い師を頼り「占いジプシー」するという話だ。

これがオモロイ。何がオモロイのか考えてもさっぱり解らんのだが、オモロイ。文章がうまいのだろうか?共感を得るのいだろうか?何かハタと学んだり気がつくところがあるのだろうか?

 

どれもそうであるような気もするが、ちょっと違うような気もする。

 

ネットでレビューを検索してみる。「精神科医でも鬱々とした気分を抱えてるんだと安心しました」とか、「自分の心をここまで暴露するには勇気がいっただろう」とかの批評が並ぶ。

たぶん、これらのレビューを書いた人たちも、なにがオモロイか、解らなかったからこういうことを書いたんだろうなと思う。

 

著者の先生は、たぶん60代でこの本を書いたみたいだ。精神科医としての名声もありそうだし、本を何冊もだしてるらしい。なのに鬱々とした日々をおくっていて、本人もそう書いてるが、なんの不満もない人生じゃないかと思える。つい自分と比べて、ずいぶんと贅沢やんとも思える。

 

まあ、そんなこと思ってるワシも、誰かからみたらずいぶん贅沢に見えるだろう。朝は目覚ましで起きたこともなく、真っ昼間から縁側でコーシー飲みながら本を読んでる。

 

これがコーシーと本なので誤魔化されているが、パチンコとか酒だとクズだ。けど、そんなクズな生活を何十年もやってるわけで、それはいつしか生き方になっている。と、自分に言い訳しているのだ。

 

本屋をぶらぶらしてると、いろんな本が「おいでおいで」をしているが、まるでうるさい呼び込みみたいなコーナーがある。夜のまちの呼び込みmきたいな、腕をつかんで離さないみたいな。

 

それが自己啓発やら、ビジネス系やら、スピ系のコーナーだ。
最近は、健康系のコーナーでもこの手の呼び込みがふえてきた。

ちょっとちゃうねんなぁ。色っぽいけど、そんなんちゃうねん。

 

たぶんね、「上がりを決め込んだ」本をワシは求めてなんかいないのだ。

ゲームでいうとそれらは攻略本だ。なんかゲームのすみっこのバグみたいなとこに迷いこんで、ここにヘンなもんあるでっていう、そんな経験を求めているんだろう。

 

この本のあとがきにエピグラムの候補がかかれていた。
「一つ一つのことが明るみに出るたびにそれは、光ではなく、影をなげかけた」