【YES!って言ってやれよ】
なんか紀伊国屋のレジがすげー混んでて、行列に並んでいたんだが、どかのお母さんと子供のやりとりが気になったんで書いとく。
子供は、なんか本を読めたことが嬉しかったらしくお母さんに「この本読めたで」と言ってる。
子供はお母さんが褒めてくれると思ったんだろう。また、自分でもその本を読めたことが嬉しかったに違いない。
だから、お母さんとその気持ちを共有したかったんだろう。
けど、お母さんの口から出た言葉は、そうではなかった。
「誰誰ちゃんは、もっと上の本(たぶん対象年齢だと思う)読んでたで」
まあ、人の子供の教育なんてワシは関係ないけど、その時の子供の顔が一瞬にして曇ったのが強烈な印象だった。
しゃーわせは、自分の中に沸き起こる感情だ。
だが、それが誰かと比べられ劣っていると自覚したとき、一気に不幸せに落ちる。一気に、一瞬にだ。
たぶん、そんなとこから人と比べると自分はどうなのか?という物差しが出来上がり、それがシャーわせから遠ざかるというクセになるんではないか?
自分がしゃーわせであるのに、他人よりも不幸だ、他人よりも貧乏だ、他人よりも優遇されていない、他人よりも…。
長い登山を考えてみる。ようやくここまで登れたんだという達成感。俺ってすげーやん!
この自己肯定感は、今まで登ってきた轍を見てそう感じるのだが、ふと上を見ると自分はまだまだ下の方にいる。首を180度回すだけでシャーわせな気持ちは、消し飛んでしまう。
競走はかまわない。運動会で順位はつけるべきだ。社会は競走の原理で動いている。けれど、それは社会の中の一つのゲームのルールであってそこに依存するべきではない。
昨日できなかったことを今日できるようになった。それは、誰かと比べることではなく、自分で喜ぶことだし、そうできているのが身体だ。
事故で左手の握力がゼロになったとき、100円ショップで買ってきたいちばん負荷の少ない握力つけるやつ(なんて言うんだ?)をガチャガチャやって、数週間でクリアして、次はもう少しレベルの高いのを買ってきてガチャガチャやった。
今では、バイクのクラッチなら簡単に握れる。
毎日が、少しづつだが前進するのが楽しかったが、誰かと比べていたらやめていたかもしれない。
考えてみれば、誰かの握力なんて自分にはなんの関係もないし、なんの影響もないのだが自己肯定感は確実に削ぎ落とされる。
自分がダメな奴だと嘆きながら山を登るのか、それともここまでやれたと満足しながら山を登るのか。
まあ、ワシらしくないことを言うなら、「愛ってねぇ、肯定と同義なんだよ」ってことだ。
だから、愛しているなら、YES!高須クリニックって言ってやれよ。(2017/12/15)