turuya

西鶴アーカイブ

いろんなところに書いてきた文章のアーカイブ

子供船長

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(2016/3/11)

小学校の時に、なんかワシのことをいつも世話してくれる女の子がいた。

どこかサルに似ていてあんまり意識もしたことがなかったんだが、この子は本当にサルを飼っていて、そのサルと一緒によく公園の鉄棒のところでだらだらとおしゃべりをした。

ときどき母親のように、ワシにかまう。手が荒れてるといってニベアを塗ってくれたり、家庭科の裁縫道具でボタンをつけてくれたり、髪の毛をいじくったり、とくかく世話をやきだがる。

今から思うと、その子は「ままごと」遊びをしていたんだろうと思う。

ワシは子供の頃から、あんまり男女の区別はつけないほうで、周りから冷やかされてもカエルの面にしょんべんみたいに女の子の輪の中にへーきで入っていけるような奴だった。

だからだろう。その子がワシの世話をやくのは、ワシのことが好きだったとかそういうのじゃなくて、たまたまワシしかいなかったんだと思う。

その子の家庭のことはよく知らないが、弟とかが欲しかったのかもしれないし、実際に弟がいて母親が弟の世話をやくのを見ていて、同じようにしたかったのかもしれない。



ある日、なぜかその子に「調子にのったらいけない」と言われた。なんでそんなことを言われたのか、当時も謎だったし今でも謎なのだが、突然そう言われた。

意味がわからんのだが、その言葉だけは今でも時々思い出す。

ワシの通知表にはいつも「ほがらか」という言葉が書かれていた。
そして「落ち着きがない」という言葉も。
はやいはなし、「おちょけ」なのだろう。1年生から6年生まで、学校や担任が変わっても毎年通知表にはそう書かれていた。

その子はワシの通知表をどこかで見たのだろうか?だから調子に乗るなと警告したのだろうか?母親の変わりにでもなったつもりで。

もしかしたら、その子の母親が言ったことを真似してみたかったのかもしれない。たぶん、そんなとこだ。けど、当時のワシはそんなことも考えつきもしなかった。

その後、その子とはいつもどうりの世話をやかれる関係が続いていったが、その言葉だけは口の中に入った砂のようにいつまでもコロコロしていた。



ここんとこ月に1回のペースで人前でしゃべくりをしている。
話す内容は時間の使い方とか、お金の稼ぎ方とか、問題はなぜ起きるのかとか、まあここで書いてるような、心理学と哲学と宗教をごっちゃにしたようなことをしゃべくっている。

いわゆるセミナーのセンセーをやってるわけだが、意識してセンセーらしくないことを喋っているつもり、どちらかというと「すべらない話」のネタみたいな感じ。

なんででかっていうと、この小学生の頃にサル顔の母親ごっこの同級生の女の子に言われた「いいつけ」を忠実に守っているからだ。

センセーと呼ばれたら、調子にのってしまう。

だから、皆に言われる呼び名はセンセーじゃなくて鶴さんだ。これが非常に心地いい。



昔、PTAの広報誌の審査員をやっていたことがあって、その時に広報誌のつくりかたみたいなことを喋って個別にアドバイスをするということをやった。

その時は皆さんがワシのことを鶴さんではなく、センセーと呼んでいた。
まあ、人前で黒板をつかっていかに読んでもらう広報誌をつくりかについて喋くるわけだからセンセーなんだろう。

最初は、このセンセーという言葉が気持ちよかった。どこか自分がえらくなったような気がしたからだ。

しかし、やがてこの気持ちいい言葉にどこか違和感を感じるようになっきた。
その理由もよく解らなかった。当時はこのセンセーという言葉が、どこか「おちょけ」なワシが暴走するような気がしたからだと思っていた。

おちょけが暴走すると、ワシはダメになる。だから、調子に乗らない。そう思い込んでいた。



センセーは、聞くものにとってためになることを喋り教える。
だからセンセーなのだが、ラカンっていう哲学のセンセーは「私は生徒に理解できるようには喋らないわよ」なんてことを言ってる。

だからこのラカンって人の言ってることは哲学の中でも非常に難解な部類に入るらしいのだが、普通センセーといえば人に教えるのが責務なんで、解らんように教えるなんてことは矛盾してるんじゃね?と思う。

んが、「禅問答」なんかもそうで、わけのわからんやり取りをしていたりするので、ラカンと同じように教えるということを放棄しているようにしか見えない。

はて、これはワシの「言いつけ」と同じようなものなのか?センセーと呼ばれて舞い上がってちょけてしまわないようにとの縛りなのか?



昔はよくチャットをしていた。スタートレックのフォーラムとかによく顔を出していたが、ここではいろんな議論ができるのが面白かったのだ。皆スタートレックを穴のあくように見ているから、その設定やらドラマの深い教訓やらを語り合える。

ああ、そういう解釈もあるのかと、ドラマがさらに深くなる。その関係には「教える」
いうことがない。

ところが、その話題をリアルで持ち出すと、相手はそんなにスタートレックフリークではないし、あるいは全然みたこともないのでどうしても「教える」ということがメインの会話になってしまう。

これはつまらない。聞いてるほうも喋ってるほうもだ。対話には同等の情報の共有が必要不可欠なのだ。

だから人は情報の共有ができる繋がりを求める。経営者は経営者と、野球好きは野球好きと、バイク好きはバイク好きと、地域大好きな奴は、地域大好きな奴と。

そこには対話が成立する。教え教えられるという関係ではなく、共感しあう関係だ。

ワシの場合は、共有もいいが議論する関係が面白いと思っているようだ。
あれこれとテーマに沿って自分の考えを出していくことで自分の世界と相手の世界が融合してゆく。



最近は、しゃべくり仕事のほかにも企業の経営者と話すことも多い。主にデザイン関係のコンサルみたいなことなんだが、そんな中で組織がダメになっている会社を目にすることが多々ある。

そこでは社長は、シャチョーと呼ばれ、どこか「おちょけ」になってるようなケースがある。いろいろヒアリングすると、シャチョーは何も会社のことを理解できていなかったりする。

自社の決算書すら見たこともない、この商品が誰に売れているのかも解らない。
そういうのはすべて、スタッフがやっているのだが、シャチョーはなぜか何もしらないのに口を出す。

羅針盤と地図はちゃんとあるのに、自分の気分だけで「あの島に上陸するぞ」と指示を出してるみたいなものだ。これでは座礁してしまうのも無理はない。これはまるで子供船長だ。



センセーとか、シャチョーとかいう言葉は、おちょけの人にはヤバい言葉かもしれない。この言葉の心地よさは人を快楽におぼれさせるシャブに等しい。

実際、この言葉に憑依されてろくでもない人生のあり地獄に足を突っ込んで、それでもまだこの言葉にしがみつく人を何人も知っている。

こういった人はヘルプミーを出さない。都合の悪いこと、つまりセンセーやシャチョーの権威に反することはすべて蓋をして見えないようにしている。身の丈以上の姿を人に見せようとする。その嘘に自分でも気が付いていない。

常に夢をかたり、ドキドキすることワクワクすることに羅針盤を向ける。

よくスピリチュアルでいっている「ワクワク」とは、「それを探せ」といってるのではない。「今をいかにわくわくするか」ということを言っているのだが、こゆ人は自分の行動を裏付けしてくれる言葉、つまり言い訳を探すのには天才的な才能を持っている。

だから、子供船長なのだ。



機械の使い方や、仕事の手順。それらは教えなければならない。
解りやすく、誰にでも理解できるように、そうやって手順を覚えてもらわないと仕事を任せることはできない。

だが、それはあくまでマニュアルを教えるうえでの先生だ。

ラカンの哲学や、禅の問答は、とくに目的があるわけでも答えがあるわけでもない。そんな目に見えないものを教えることはできない。

だから、あえて難解なのだ。考えることで自分の世界は拡張できる。

閉じた世界の王様になるよりも、広い世界を旅したい。
そのときに、体力を回復してくれる呪文を持つ奴や、遠隔魔法が使える奴や、そんな奴がいっぱいいたら旅はわくわくするだろう。

世界を拡張するためには、ヘルプを出すべきだ。
センセーとかシャチョーと呼ばれるのではなく、私を助けてくれと言うべきなのだ。