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西鶴アーカイブ

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意識は自分の行いをただ眺めているだけなのにゃ

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(2016/3/13)
意識は自分の行いをただ眺めているだけの存在。
この考え方にここんとこ完全に囚われていて、いろんなことをこの仮説に当てはめて考え直している。

さすがにバックグラウンドで考えるという芸当は無理なぐらいのメモリ使用量なようで困ったもんだが、結構この仮説はオモロイ。

たとえば、今タリタリにいるのだが、喫煙室から見える水槽の外のような一般席では子供が自分の家のように振舞っている光景が見える。

喫煙室は密封されているのであまり外の音は聞こえないのだが、それでも子供の声が聞こえてくる。

とくにここで親の教育がというつもりはない。

ただ、この子達は「解ってやっているんだろう」とかんがえる。

これは子供の戦略なのだ。この悪びれない子供らしい行いをすることで「存在を持って影響を与える」という生命の動機を試しているんだろうということが理解できる。

なら、親とか大人がすべきことが、そんな戦略は通用しないんだと解らせるべきだ。今の社会ではそれは無駄だ。他の戦略とったほうがいいよ。

ニッケ前で補導していたオラオラ系の若い先生。
巻き舌でチンピラのように子供たちを叱っていた。
絡まれているのかと、ワシは助けにいこうとしたぐらいだった。

この先生の根底にある戦略は、恐怖で相手をコントロールするという方法だ。たぶん、この先生が子供の頃に覚えた戦略なのだろう。

そんなふうに恐怖でコントロールされた子供は、相手に恐怖を与えるとコントロールできるんだと勘違いしてしまう。そして恐怖を与えることを学習しようとしてしまう。

「親の背内を見て育つ」とは、こういうことだ。

そして意識はただたんたんとその様子を眺め、やがて行為のあと、ナノセカンドの時間で自分の意思がそうさせたのだと勘違いしてしまう。

この仮説が正しいとすれば、タマシーなんてものの定義も変わってくるかもしれん。

もちろんそれは仮説に仮説を重ねるようなもので、危なっかしい思想なのだが、いやもうオモロイんで考えるなっーのが無理。