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西鶴アーカイブ

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パターン認識

f:id:hotkakogawa:20180326120207j:plain(2015/7/10)

昔、「とりあたま」をやってたとき、定連の客と議論になった。

まあ、その内容はネットにあがっているエロい画像をコンピュータの判断で削除できるかという、どーでもいいような話題だったんだが。

客はできるという。ワシはできないという。その議論の焦点は、なにがエロいかをコンピュータにどう覚えこませるかということだった。

ど素人が議論してるから内容はその手の本職からすれば漫才みたいなもんだろうが、画像という定義がワシと客では大きく違っていて、客は、ネット見たりゲームしたりするぐらいでコンピューターで何か作業をしているわけではない。ワシは日々、画像というものを仕事で扱ってるんで、それが点々の集まり、つまりドット絵だと解っていた。

北の将軍様の国では何かの応援をするときに、人が持つ四角い色紙を組み合わせて観客席に色んなドット絵を出現させるが、テレビも印刷もパソコンのモニターも基本は同じ、ドット(点々)の集まり(モザイク)で、それが細かいと画像は美しいし、荒いとなにかわからねーというだけのことなのだ。

だから、エロい画像どころか、どんな画像もコンピュータがそこに意味を見つけるのは難しいだろうとワシは主張した。画像自体には意味はない。意味をつけられるものなのだ。

そんな議論をしたのは阪神淡路の地震の年。

いまでは、その不可能はある程度はできるようになってきている。文字認識のようにドットの埋まりぐあいで認識するんではなくて、「この形に似たようなパターン」というマッチングでやってるんだと思うが、顔認識なんてものも、目と鼻と口がだいたいこれぐらいの距離で並んでいるものが顔ということにしときましょうという定義にもとづきパターン認識をしているようだ。

特に目の位置は重要なようで、ワシのヘタクソな絵でも目さえちゃんと書いておけば顔として認識するのだ。



定義に近いものにマッチングさせるパターン認識。これって人の認識もそうであるらしい。目に入った光の情報。この段階ではドットの情報とそう変わらない。見たものを自分の記憶に照らし合わせて、パターン認識することで、見たものの正体に仮説を立てる。ああ、これはおねーちゃんだなと。ないすばでぃだなと。

ちなみにワシは、手塚治虫火の鳥の絵を見て、おねーちゃんを見た時と同じ色っぽさを感じるが、これはパターン認識である。どこがマッチングする共通点かというのは潜在意識の領域なんでよく解らないが、たぶん「線」だと思う。アトムもジャングル大帝のレオにも、ワシは萌えるから。




パターン認識。この理屈がわかれば人の不思議が、よく見えてくる。

たとえば幽霊がなぜ見えるのか?特に子供はよく幽霊を見るがなぜなのか?
心霊写真や空に舞う竜や麒麟の正体。
子供はなぜいろんなことに興味をもち、くそウルさく質問してくるのか?
手塚の漫画と犬の太ももはなぜエロいのか?



このパターン認識は、大人になるにつれ照らし合わせる記憶量が多くなる。子供のころは世界はキラキラしてワンダーランドだったが、大人になるとそうは思わないのはこのため。

四六時中こどものようにワクワクしてたら、脳は疲れてしまうから、子供と同じぐらいの睡眠が必要になる。子供は、庇護する大人がいるから四六時中ワクワクして、パターン認識するための情報を摂取して生きていくことができるが、大人が同じようにしてたら普段の生活ができない。

よく、バイアスがかかるとか言うが、このバイアスがかかっている状態がパターン認識であって、基本的にバイアスがかかるから生物は効率的に生きていけるものなのだ。

そしてこのパターン認識こそが、ワシらが認識する世界そのものだと言える。

※この前、ある人が特定の人を思い浮かべると左足がつるって言ってた。この人、いわゆる霊が見えるらしいが、左というのにワシは引っ掛かりを覚えた。だいたい人は、左に過去を感じ、右に未来を感じる。これは、そう自然と決まっているわけではなくて、文化的にそう思い込んでるのだが、左足がつるというのは過去というキーワードがどこかででてくるはずだ。これもパターン認識の一つだ。



「しんくろにしちー」
たとえば、シンクロニシティ

ワシの場合は、このシンクロニシティでずいぶん助かっている。仕事で使うことが多いが、何かの問題、そー、ダメダメな商品の立て直しのデザインの仕事を受けてたとする。それをどーしたもんかと問題を考えながら、情報量の多い中に身を置くと、勝手にその問題解決になりそうなヒントが向こうからやってくる。

情報量の多い場とは、たとえば人が集まる都会の商業施設とか、なんかのパーチとか、大きな本屋とかだ。本屋は絵と言葉の洪水なので、情報量の少ない加古川でも使える場だ。ぶらぶらと店内を歩いていると、その時に抱える問題の解決につながるヒントがバンバン飛び込んでくる。

(情報量の多い場所というとネットがそうだが、ネットの場合はそうはいかない。なぜか解らないが、たぶん後で書く理由によるものだ)

これを「引き寄せた」という人もいるが、いや、魔法じゃないから。これは、自分で知らず知らずのうちに「抜き出し」ているのだ。

たとえば、朝起きてテレビの占いで赤がラッキーカラーだと言われる。そしたら、行き交う車から、すれ違う人、家の屋根まで、赤ばっか見て歩くことになる。とうぜん山しかないような田舎では、圧倒的に情報量が少ないから、こうはいかないが、情報の多いところだとバンバン抜き出す。

ゾロ目を意識すると、ふと見た時間はゾロ目だし、買い物したレシートもゾロ目だし、車のナンバーやら、名刺交換した人の電話番号までゾロ目だったりする。

普段から、赤い色もゾロ目も、そこに「在る」のだが、いちいち膨大な情報をすべて受け取っていたら疲れてしかたない。身体は、必要のない情報は、瞬時にフィルターにかけ、なかったことにしてしまう。赤色やゾロ目など意識することで、そのフィルターははずすことができてフォーカシングすることができる。



若い頃、大きな石に仏を彫る職人の仕事ぶりをインタヴューしたことがある。ノミひとつでよくもここまで緻密なものが彫れるものだとワシは感心していた。下書きとかするんだろうと思っていたのだが、その職人が言うには「石をジッと見てたらそこに仏の姿が浮き出てくる」そうだ。

「仏さんがな、石の中に閉じ込められているんや。つくるんやない、すてていくから仏がでてくるんや」

これも赤い色やゾロ目と同じだ。すでにそこに仏は「在る」。フィルタリングで余分な情報を捨てることでフォーカスできる。

当時はその言葉の意味がよく解らなかったのでワシは多少トンチンカンな質問をした。

「けど、どの石にも仏がいると限らないのでは?」
「何言うとるんや。信じんと見えるもんもみえるかいなぁ」

今ではこの意味がよく解る。職人のおっさんは何気なく言ったが、この信じるという言葉は重要なキーワードだ。たしかにそこに「在る」と疑わない意志がなければ見えるものもフィルターがかかって見えなくなる。そこに「在る」と信じるからこそ、抜き出すことができる。

これはネガとポジの概念だ。「在る」ものが見えない、つまり「無い」とき。それは全体のなかに埋没している。「在る」ものが見えるとき。それは全体の中から浮き出ている。「在る」と「ない」は、かように反転する見えかたの変化でしかなく、それを選んでいるのはそのものの存在ではなく、「私の意志」なのだ。

「リンゴが無いことを想像する」のが不可能だ、というのは言葉遊びではない。在るとないは切り離せないもの、ひとつの形態の表現でしかない。


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