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西鶴アーカイブ

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気持ちよくなることと幸せになることは違うのにゃ!

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ワシは、昔、快楽とシャーワセの違いがよく解らなかった。気持ちよくなることがシャーワセだと思っていた。
 
だから、オネーチャンと付き合っていても快楽を求めていたから、事が終われば背中向けてタバコ吸うような奴で、まったくもって優しくはなかった。快楽を求めていたから、より快楽が得られそうなオネーチャンにすぐに乗り換えていた。
 
仕事もそうだ。
 
金が稼げれば快感だ。だからなんでもやった。まるでギャンブルのように金の匂いがするところにはすぐに首を突っ込んだ。非合法でもおかまいなし。捕まることさえなければ、これはビジネスだとおもっていた。
 
稼いだ金で、おねーちゃんが跪いてタバコに火をつけてくれるような店で、大して酒も飲めないクセにレミーマルタンなんかをボトルでおろし、仲間をひきつれ宴会していた。
ワシの宴会芸や酒の席でのトークはこの頃に会得したものだ。
 
ワシは常に快楽を求めていた。
 
仕事では大口を叩き、大きな夢を語り、人脈を広げようとした。一人なのに無理やり会社組織にして若きビジネスマンを気取っていた。大きな仕事を勝ちとれば仲間をひきつれレミーマルタンだ。
お前らサイコーやわと言いながら夜の街を肩で風を切って歩いていた。それが楽しかった。快楽だった。
 
つまり、エーカッコすることに全力を注いでいたのだ。
 
もちろんそのギャンブルに負けないように勉強もしたが、それはいい仕事をすることではなく、エーカッコをするためだった。常に勝ち負けで考え、ひと勝負が終わると次はもっと大きな快楽、もっとエーカッコしたくなった。
 
そんな生き方を毎日していて、それがシャーワセだと勘違いしていた。
 
快楽には常に依存性がある。世の中の依存性があるものを見ていくとそれはあきらかだ。クスリもギャンブルも、風俗産業も、生きていくのが精一杯だった時代でさえそれらは存在していた。
快楽は永遠のマーケットだ。
 
また、環境が厳しいほど、この快楽は背中から取り付く。「今」から逃げるには快楽はもってこいだ。
 
けれど、あることがあって、快楽は馬の目の前にぶら下げたニンジンだということに気がついた。
モチベーションは上がるが、つねに欠乏する。あるとき、何をやってんだと気がつくことになる。
それは誰にでも必ず来る。少なくても死ぬ寸前にはそう思う。
 
なぜかというと、快楽はシャーワセとは違うからだ。
 
気持ちよくなることとシャーワセとは違うからだ。
 
最近はこのシャーワセになることと快楽を得ることが同じだと語られることが多い。夢を持ち、自分のやっていることは人類のための天命だと言い、正しいことをやっていれば天が味方するといい、それがスピリチュアルの名の元に語られる。
 
カッコいいことだけを選んでブログにあげ、自分のリア充ぶりをアピールし、「こうやれば幸せになれるんだ私のようにね」とビジネスやスピリチュアルという快楽産業に誘い込む。
 
快楽産業は、戦後の喰うにも困る時代でも存在していた。快楽は無限のマーケットだからだ。いったん快楽に溺れると客は無限にリピートしてくる。ある種の宗教も快楽産業である。
 
昔の快楽産業はギャンブルや風俗やクスリと決まっていたが、最近は自己実現や夢やスピリチュアルへと移行している。世の中が厳しくなれなるほど、これらは勢いを増す。
 
快楽はシャーわせとは違う。
 
快楽がシャーワセならクスリを打つのが手っ取り早い。
金がなくなれば、すぐに売る方の仕事が回ってくる。同じ志をもつ仲間もできる。やめようと思わない限り快楽はついてくる。快楽のすべてはこれで手に入る。
 
これはもちろんシャーワセではない。非合法だからだとはワシは言わない。
 
本当のシャーワセ、空をみて流れ星を数えたり、朝焼けの空を見たり、誰かに守られているんだと感じたり、誰かを守ろうと思ったり、空気を吸うだけで涙がでてきたり、誰かの名前を呼ぶだけで心が熱くなったり、そんな気持ちが亡くなるからだ。
 
仕事は快楽ではない。スピリチュアルもそうだ。
私がシャーワセになるため、アナタがシャーワセになるためのもので、
 
 
私が気持ちよくなるものでも、アナタが気持ちよくなるものでもない。
(2015/4/23)
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