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西鶴アーカイブ

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恐怖や怖れは、背中を見せると追ってくる

f:id:hotkakogawa:20180330002815j:plain(2015/10/30)
たりたりでチャをシバいていたら、なぜか多い確率でトイレに行きたくなる。

知り合いで、本屋にいくとトイレに行きたくなる奴がいたが、そいつの解釈によると本の匂いがトリガーになるそうだ。

んじゃ、ワシはコーヒーの匂いがトリガーなんだろうか?

そういえば、家でもたりたりの豆でコーヒーを入れるとトイレに行きたくなる。神戸館の豆やチャッツワースの豆だとそうはならない。

なんか関連付けされてるんだろうなと思うがよくわかんねー。

が、困るのはワシのテリトリーのたりたりにはトイレが1つしかない。

しかもドアをあけてすぐに便器。こーゆートイレってワシだめなんよ。

落ち着かない。

カギかけたかな?
おもいっきしドア引っ張るやついねーか?
香ばしい香りが外にでていないか?
ドアのっくされたらどーしょう。

もー完全に脅迫観念にちかい。

アクシデントに対する人の想像力は計り知れないぐらいに広がる。これはワシに限ったことではない。
 
ある人は、家のカギをかけたか?鍋の火を消したか?地震が起きたらだいじぶか?そんなアクシデントの可能性をことごとく心配してしまう時があると言ってた。

なんのトリガーか解らんが、人ってそういうとこある。

これは遺伝子に刻み込まれたリスクヘッジつーか、危機管理つーか、想定できるすべてのことに対して対処を考えておこうとするミームなのだ。

暗く深い森の中、ワシらの先祖は身の危険を感じながら暮らしていた。

ガサゴソと音がするとき、それを能天気なポジティブ思考で考えていたらたちまち捕食者の餌になる。

恐怖は想定される未来をネガティブに導く羅針盤だ。それによって危機を回避してきたと言える。
恐怖や怖れの感情はこのためにある。
 
家にカギをかけたか心配なやつは、保険にはいったそうだ。
すると不思議なことに強迫観念じみた心配な気持ちは消えたらしい。

怖れを消そうと安心をイメージしようとしても、そこには無理が生じる。

事故が起き「ない」。火事がおき「ない」。地震がこ「ない」。

「ない」ことを想像するのは不可能だからだ。それなら、ヤバイことが起きてもどうにかなるという安心の担保を用意したほうが手っ取り早い。

恐怖や怖れは、背中を見せると追ってくる。けど、向き合って対峙すると味方になる。

では、ワシは。うーむ、オムツ?いやいやいや。