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西鶴アーカイブ

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グランディング(地に足をつける)

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(2015/12/10)
人の特徴として「未来を予想する」という思考がある。
 
動物にもそういった思考はあるみたいで、特に犬とは長年暮らしたから、ある程度は未来を予想しているようだが、せいぜい「あーすれば、こーなる」「こーだから、あーなる」といった過去の記憶から導きだせるもので、人ほどのものではないようだ。
 
人の場合は、どんどん仮定の未来から派生するさまざまなカスケードを描くことができる。だから、複雑な仕事をこなすことができるし、かなり先の計画までたてることができる。
 
これは、人が身を守るために獲得した生きる術だと考える。
 
人がまだ動物だった頃。深く暗いジャングルで生き延びるために未来を予想して日々を暮らしていた。ガサガサと音がすれば何か捕食者が現れるんじゃないかと身構え、常に恐れをパートナーとしてビクビク生きていたのだろう。
 
だが、ビクビクしているだけでは洞窟から一歩もでることはできない。だから人は出歩くことで獲物を獲得する未来も同時に思考する。あの森の向こうには、今よりもいい暮らしができる何かがあるかもしれない。
 
人はこの恐怖と希望の両輪で未来を思考した。
 
過去に恐怖した経験は、それを回避する知恵になり、何が起こるか解らないという未来への恐怖は過去の経験に照らし合わせて回避するようにする。それらはすべて「ここではない、どこかへ」という希望が下敷きになっている行動だ。
 
そして人は、グレートジャーニーの大移動で惑星全域に生息している。
希望と恐れの両輪をもって。
 
ビジネス書やスピリチュアル系の本を読めば、恐れは自分にブレーキをかけるからと否定するものも多い。
 
が、恐れは危機回避で人の遺伝子、あるいは集合的無意識、あるいはアカシックといってもいいが、それらに深く刻みこまれた生きるための術だ。これは否定しても否定しきれないものだ。
 
恐れるあまり一歩を踏み出せないというのは、現状でも生きていけるという担保があるからに他ならない。
 
現状で生きていけないなら、いくら恐怖があってもそこから抜け出さずにはいられない。その時に身をまもってくれるのが恐怖であり、過去の経験という知恵であり、一歩一歩進めるのは生きていけないという現状であり、また生きていけるという希望なのだろう。
 
本来、人はこのバランスを兼ね備えている。ビクビクしながらもあの山の向こうの新しい世界を目指して歩を進めていったのだ。
 
希望だけでも生き延びてはいない。恐怖だけでも生き延びていない。この両輪で人は生き延びてきたのだと思う。
 
今は社会が整備され、ずいぶんと危険はなくなった。
 
が、それでも不幸なニュースや話を聞くと、自分とは関係ないと思いながらもどこか恐怖を感じるし、希望を胸にいろんな冒険をしたいと思いつつも、現状維持が一番だと思うわけだ。
 
このバランスを欠いている人も最近は多い。
 
何がおこるか解らないという未来への恐怖や、過去の経験にもとづく恐怖に囚われている人。
そういう人は、ただただ恐怖が先走り、次から次へと恐怖の未来のカスケードを無意識に描いてしまう。恐怖のビジョンは、人は先にあげた生存に関わるものだから、簡単にいくらでも出てくる。
 
ifにifを積み上げる形で時には他人からしたら笑い話になるぐらい、次から次へと起こっていない未来を積み重ねてしまう。
 
逆に恐怖に麻痺して、バラ色の未来に生きてる人もいる。陰きわまれば陽にになるとは漢方の基礎だが、まさに恐怖から逃げるために、あえて自分で恐怖の未来に蓋をしている人だ。
 
何も悪いことは起こらないと、計画もなく断崖絶壁の一本道をも歩いていってしまう。最近ではスリッパで登山をする人もいるらしいが、こういった人だろう。それでも今の世の中は、誰か助けてくれたりするので生き延びることはできるのだろうが、どこか生きるというバランスが崩れている。
 
地に足をつけるとは、今の続きに明日があるということを「思い出すこと」だ。
過去の恐怖や失敗は、経験済みだから違うプロセスをたどれば回避できるし、未来への恐怖は恐怖と向き合い、あらゆる可能性を考えることで危機管理になる。
 
そうして過去と未来の恐怖に向き合うことで初めてそこに本来の希望という道が姿を見せる。道がみえれば後は、地に足をつけ歩いていけばいい。
 
ワシは「意図」とかいう言葉を多用するが、行きたい先という意図があれば、ビクビクしながらでも道を見いだすことができるという、それこそ過去の経験で言っている言葉だ。
 
ちょっと前のカキコでワシは「夢」をこけおろしたが、だいたいにおいて夢には道がないからだ。また、過去の恐れに囚われるのは、それを経験として認識できないからだ。
 
過去の恐れは経験であり、それで得られるのは「知恵」になる。
未来の恐れは危機回避であり、それがあるから「知識」を得ようとする。
 
 
知恵と知識の杖があれば、地面をつんつん突きながら歩いていける。それが環境や誰かに影響を受けることなく自分の「意思」で「意図」をもって歩くということだと思っている。