清潔というグロテスク
「コンビニ人間」の村田さんの小説。
世界から、性というものがなくなったらどうなるかかというお話。
巻末に斎藤環の解説が付いてるのだが、これがなかなかオモロくて、この解説は正面から性というものについて切り込んでいる。
が、ワシはまた違う角度からこの小説を分解してみたい。
SFには管理社会という一見ユートピアに見える世界が実はディストピアだという話は定番のようにでてくる。
これは、テーマはいろいろだが、社会の生きづらさに繋がるもんで、たしか村田さんのコンビニ人間も、普通とは何かをテーマにしてたように思う。
コンビニ人間につづくこの小説は、普通の結婚、普通の家族というものをくるんと裏返してみることで普通を浮き上がらせようとする試みだと思った。
そういう意味で、コンビニ人間のテーマをさらに拡充したもので、村田さんが追いかけているテーマなんだろう思う。
物語は、夫婦間のセックスを近親相姦だという異様な世界が舞台だ。
このへんからなんか気持ち悪くなってくるんだが、さらに子供がすべて管理されたセンターで産まれ、大人はすべての子供の「おかあさん」である実験都市に至っては、悪夢をみたような心地悪さがある。
で、この心地悪さはどこか現実の世界とデジャブを感じる。
たとえば、起業コンサルが開催するセミナー。
たとえば、スピ系のワークショップ。
たとえば、次元上昇系ニューエイジカルチャー。
そこには、この小説と同じく生存というものを徹底して排除しようとするフラット化という共通因子が存在する。
前にツイッターかなにかで「みんな違ってみんなイイの反対は、そろいもそろってバカばっかり」というカキコをみてワロタけど、時代は「普通を装う時代」から「個性を装う時代」へと気持ち悪い進化を始めていて、そこには本来の生存というものが抜け落ちているんじゃないかという気持ち悪さがジワジワと広がるのだ。
社会はあきらかに個性というものも管理下に収めようとしている。
普通であってはいけないという普通。
自分の生きているミッションという謎の原理。
大いなる「繋がり」の一部としての多様性。
これらは全て、生存というものを他人に明け渡している依存関係を産み、そこになんとなく生きづらいという雰囲気を形成しているんじゃなかろうか?