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西鶴アーカイブ

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咲く花にこの世のご縁を学び 散る花にこの世の無常を学ぶ

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2018/6/23
 
ここんとこ、地域経済、共同体、人の繋がり、縁というテーマを追いかけていて、「点」という思想つーか、生き方にたどり着きそうではある。
 
「テーマを考えてたら、そのヒントが向こうからやってくる」というのはいつも言ってることだが、図書館に本を返しにいく途中で、お寺の掲示板が立っていて、ポスターが貼ってあった。
 
このポスター、寺の教えを毎月絵言葉みたいにしたやつを貼ってあるんだが、今日みたやつはこんなことが書いてあった。
 
「咲く花にこの世のご縁を学び
散る花にこの世の無常を学ぶ」
 
なるほどーと、ワシはそのことについて考えながら歩を進める。
 
無常。これは移ろいゆくことだ。花もそうだが、人間も変化している。一時たりとも同じ状態ではない。
 
これは気持ちの話ではなくて物理的にそうなのだ。細胞レベルでいうと、産まれた時のワシはもうとっくにいなくて、入れ替わり続けている。
 
散る花は、この無常をたしかに放っている。
 
では、咲く花のご縁とは何か?
 
花が咲くのはー
 
つーか、選挙カーうるせー。ほとんど叫んでる。
 
えーと、花が咲くためには、太陽や水や土やらが必要で、それらがご縁だ。
 
オモロイことにこれらの要素は、皆花を咲かせようという意図があるわけではなくて、それぞれがそれぞれの活動をしているだけなのだ。
 
その交わりの結果として花は成長し、花を咲かせる。
 
この花を中心にした縁の相関図を書いてみようとアッポーペンでいつものイラストを書き始めたのだが、これ専門的に書こうとしたらものすごい巨大なマップになることに気がついた。
 
たとえば、土にしても、その成分や微生物などの縁でできているし、また水にしてもそうだ。太陽ともなるとその縁は地球上を飛び出してしまう。
 
いや、むしろこれは正確なマップ=世界だろ。
 
けど、これらの縁は常に無常で更新され続けている。一時として縁が固定されることはなく、無常があるから縁がそこに生じるわけだ。
 
これは、これらのテーマの果てにたどり着いた「点」と同じことだと気がついた。
 
点は、基本的にありえない。どんなに小さなナノサイズの点でもひっついていると面が生じる。
 
だが点は接触している前提であるから互いに影響は受ける。点はでは矛盾したものであるかといえば、そうではない。
 
点の考えは、まさに無常と縁が同じものであるように、あるいは互いの存在を補完するように螺旋を描いているのだ。
 
これが本来の縁、つながりの在り方になる。