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西鶴アーカイブ

いろんなところに書いてきた文章のアーカイブ

「しゃげなべぇべぇ!世界は愛だぜ!

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(2014/11/25)

その人は、自分の愛犬が死んでからしばらくするとジグソーパズルを買ってきて始めたそうだ。で、そのパズルが完成しそうになったとき、ちゃぶ台をひっくりかえすよようにピースをバラバラにし、始めからもう一回やると言ったそうだ。
 
まるで賽の河原の石を積む話みたいだと思った。
 
ロストから抜け出す時、人は自分なりのメソッドでなんとか抜け出そうともがく。何度も何度もループする思い。賽の河原で石を積み上げ、またそれを壊し、また積み上げる。これは祈りの本質と同じものだ。
 
何度もジグソーパズルをする。その気持ちは突き刺さるよう理解できる。
 
 
前に犬を飼いたいけど、ちゃんと飼う自信がないという人がいた。
「犬を飼いたいけど、大変そうでー」
たしかに、犬と暮らすのは大変だ。毎日、雨の日も寒い日も散歩しないといけない。飯もやらんと。ンコの始末もしなきゃいけない。フィラリアやワクチンにと金もかかる。家を留守にできんから、旅行にいくのも大変だ。仕事もままならない。また自分より早く死ぬ確率も高い。でも、それでも、犬とは暮らしたほうがいいよ、とワシは答えた。
 
犬を飼いたいと言ってた人は、何故?とは聞かなかったけれど、はて、何故ワシはそう答えたんだろうか?
 
 
そういや、昔犬を連れたホームレスがいた。自分が寝る場所もないのに、自分の飯ですら精一杯だろうに、なぜそのホームレスは犬を連れていたんだろうか?家があった頃に一緒に暮らしていた犬なんだろうか?ホームレスになってから一緒に暮らし始めたんだろうか?もう、何年も見かけないけど、どうしているんだろうか?
 
 
昔、病院で一緒になった若い兄ちゃん。病気の犬を抱えて毎日1本が数千円の注射を打ちに来ていた。犬の看病で仕事も長期で休んでしまいクビ寸前だといっていた。金も底をついてきたが、当時は犬の透析というものがまだなかったんで、からだの毒素を中和する注射を打ち続けていた。金が無くなったときが命の尽きるときだ。話をしているうちに、その兄ちゃんは泣き出してしまい、ワシはなんと言ったらいいかよくわからなくなって、頑張れよとしか言えなかった。あのときのラブはもういないだろう。あの兄ちゃんは今もどこかで犬と暮らしているんだろうか?
 
 
なんでそんなに大変なのに犬と暮らすのか?
「犬と暮らすと家族になるから」と誰かが言った。家族になるからと大切にしようとするんだよ。自分の子供と一緒だ。家族のことなら大変だとか思わんだろう。そういうことだ。
 
そうなんだろうかとワシは思う。そもそも家族とは絶対的な事実としての血の繋がりを言う。これはもっとも古い組織の構築であり契約の在り方だ。自分の血を判子がわりにする習慣はここにルーツを持つ。切っても切れない血の契りというやつだ。兄弟の盃、親分子分、これも皆、血の繋がりの模倣だ。ほのぼのした家族という言葉の裏には数え切れない悲劇も隠れている。固定化された契りは、見えない牢獄とも化す。
 
種が違う、言葉も違う、当然血縁という契りもない、なにもかも違う別の動物なのに、家族だって?
たしかに家族のように大切にする人もいる。けれど、永年暮らしていた家族たる犬をほいほいと捨てる人もいる。この違いはなんだろうか?
 
 
一時、一世風靡したマッキンゼー出身のコンサルの人が、生活の全てを数字に置き換え、自分にとって損か得かであらゆることを選択するべきだと言って、ネットを中心に反発をくらったことがあった。
 
たしかに、損得で選択すればリスクは最小限に抑えられるし、ジンセーは決められたレールのように完璧に近い絵を描けるだろう。人は獲物を狩るかわりに金を狩り、そして生きていく。そこの部分を効率化させることは誰にとっても命題だ。その仕組みを構築したものは成功者と呼ばれる。
 
そんな競争の中では、犬と暮らすということほど非効率なものはない。癒しがほしければ、マッサージにいけばいいし、最近では犬と遊べるテーマパークも存在する。今はどうか知らんが、一時はレンタルドッグというサービスも大手資本で、たしかに存在していた。飼うというわずらわしさがなく、犬をかえるというのが謳い文句だった。
 
 
損か得か、効率的であるか否か、そこに主をおけば犬とは暮らせない。実際、ワシの場合もここんとこすることがなくて、本ばかり読んでいるが仕事が暇ななのかと思えばそんなわけでもなくて、犬が1匹になったんで時間ができたということみたいなのだ。考えれば、散歩の時間だけでも毎日数時間は消費していた。その時間を仕事にあてれば倍は働けるかもしれない。
 
しかし、そうはいかないことはワシは充分知っている。多くの会社に首を突っ込み、そうではないと身体が知っている。どこの会社組織でも、効率化を至上命題にしている。その手法は、人を会社という大きなマシンのパーツとして考えるというフレームで構築されている。最近では福利厚生で人の休息やメンタルも計算に入れてというふうに変化してきているが、パーツに油を指すということに気がついただけで、フレーム自体はそう大きく変化してはいない。
 
そこに確実に足りないもの。それは愛だ。
 
まあ、ワシが、このワシが愛なんて言葉をだすのもこっぱずかしいし、書いていても赤面するがこれは事実だと思う。
 
効率化がもたらすのは、パーシャル走行でしかない。パーシャル走行とはバイクで加速も減速もせず巡航速度を維持する運転のことをいう。ワシは高回転域でのこの走り方が好きで、まるで滑るように走っていくのだが、燃費の面からも運転する面からも楽チンなのだ。ブレーキに負荷がかかることもない、エンジンに負荷がかかることもない、最小限で流れるように走れる。しかし、そこに至るまではやはりエンジンを回す必要がある。道がこんでくるとブレーキも必要だ。
 
対して、愛というのは、エンジンで原動力だ。これがなければ、人も動物も一歩たりとも動けない。生きていることイコール愛だと言っても間違いではない。
 
よく勘違いするのは、というかワシもそうだったのだが、愛というと恋愛ものの「愛している」がアタマに浮かんできてしまう。だから勘違いしてしまうのだが、定義付けは非常に難しい。あえていうなら「大切にする考え」といえるだろうか?
 
また、愛というと神様がもつ穢れのないもののようにイメージするが、たとえば恐れは愛から産まれたニュートラルな感情だ。怖れから逃げようとすると、怖れの正体は見えてこない。目をこらして対峙すると怖れの仮面の下に愛の姿が見え隠れする。
 
効率化を主体にすれば、犬なんてものは飼うべきではないし、至る目標に到達することを考えれば邪魔になればホイホイ捨てるに限る。組織でも目標に至る上で足を引っ張る人的パーツは、ホイホイ捨てるか、入れ替えるなりするほうがいい。
実際、パーシャル走行をする上でそういう処置をする組織も多い。
 
 
愛を主体にすると、すでにそこに在るものから意味を引き出そうとする。それは多種多様な価値に満ち溢れ可能性は全方位に拡がる。犬のンコを拾うことにすら、そこに意味を引き出すことが可能になる。モノクロームの世界はたちまちフルカラーの世界に見えてくる。夢なんてものは、単純にいきたい場所であるに過ぎず、追いかけるものでも苦労してつかむものでもないことが解る。
 
 
犬と暮らすいうことは、このあいまいでふやふたした愛というものを身体感覚として認識するということではないか?それに気がつかないのは、至る目標がゴールだということに囚われ、今が大切だと思えていないんじゃないか?
 
至る目標、金であったり夢であったり、そういったものは追えば逃げる蜃気楼現象である逃げ水のようなもので、キリはない。追いかけることは原動力になるかもしれないが、そこには常に今を否定し続けなければならないのだ。足りないと嘆くだけのジンセー。それはある意味地獄のようだ。
 
大切なものを犠牲にしてまで追いかけても、それは常に「もっともっと」という枯渇を呼ぶ。
「そこにない」大切なものなど存在しない。常に大切なものは、「そこに在る」ものなのだ。
 
だから。愛は。求めるもんでも受け取るもんでもなくて、与えるもんなんだわ。それが返ってくるなんていうのは単なる交換で商取引だ。
 
けど、組織も人も、なんでもだが、大切にする気持ち・・・これは今の現状をひたすら因数分解してゆくことで気がつけるものだ・・・を素直にアウトプットできれば必ず返ってくる、というよりは満ちてくるのほうが表現としてはピッタリかもしれない。それは常にそう意識するだけでオケだという実にお手軽で簡単なものだ。
 
とまあ、ながい文章でタリーズで茶をしばきながら書いてるわけだが、読み返すとワシは何を言ってるんだ?と正直思う。このワシが?愛だって?けど、これはみゅうが死んでポッカリ空いたココロの空間にいつの間にか入り込んでたものだ。
 
この前、たかじんの「殉愛」についてずいぶん書いたが、たかじんも究極のロストである自分の死に向きあって似たようなことを得たんじゃないかな?
 
いや、本当に笑っちゃうが、原動力は愛なんだわ。真面目な顔で言うと似合ってないから、サングラスかけてロックンロール風にこれからは言うことにしよう。
 
「しゃげなべぇべぇ!世界は愛だぜ!自分のココロやカラダ、それが生きてる舞台という世界、それを愛せよ!おーらい!てんきゅう!」
 
 
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