【ひねくれギフト】
個性というのは、「いいところを伸ばす」というよりも、環境の都合の悪い部分を行動で補填するというように出来上がることが多いような気がしていると昨日書いた。
つまり平均というのが丸なら、歪に歪んでいるのが個性。
環境によって、あるいが自分が身を置く場所によってそれは長所にもなり、また短所にもなる。
ずっと前にワシはある場所でこんなことを喋った。
個性について考えた創作寓話だ。
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おしゃれなファッションデザイナー。
実は彼女はおしゃれとは程遠い環境で育った。
学校はおしゃれ禁止。制服の乱れは毎日チェックされる。厳格な家でもちょっとでもおしゃれをしようものなら、たちまち叱られる。
ある日彼女はちょっとした工夫をした。袖の襟の内側に綺麗な布を縫い付けたのだ。
袖をまくるとその布が見える。家や学校では袖をまくることが禁止されていたから彼女の隠れたおしゃれは見つかることもなかった。
そんな子供の頃の工夫は、のちに彼女のデザインの特徴になった。
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その少女はずっと屋根裏で隠れていた。捕まれば収容所へ連れて行かれる。だから、1日息を殺して隠れていた。
屋根裏にあったのは1冊の本だけ。もう暗記するほど繰り返し読んだ。
繰り返し読んでるうちに本の世界は彼女の頭の中でどんどん想像の翼を広げていった。
大人になって作家になった彼女は、まだまだ私の中の頭の中に広がる世界の一部しか出していないわと言った。
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例えば、目の見えない人がいる。目が見える人が多数を占める社会ではそれはマイナスだろう。が、仮になにかの環境の変化、そうやね濃い霧が出てるとか、そんなときは目の見えない人はだんぜん有利になる。
ある種のコウモリは、敵に襲われない真っ暗な洞窟を住処に選んだ。この手のコウモリは少ない光を受け止めるように目がやたらデカくてクリクリしていて犬のような顔をしている。
コウモリは、音波を出しそれが洞窟の壁に反射する音を耳で拾い、自分の位置を確かめる。
このことで暗闇の洞窟の中でもぶつからずに飛びまわることが可能だ。
環境に適応する。これも個性の誕生と同じプロセスで、よいところを伸ばしたというよりは、マイナス部分をプラスの転換させているようにおもえる。
ダチョウもあの脚の筋肉はハンパじゃない。あんな脚で蹴られたら一発でノックアウトだろう。あいつらは鳥のクセに飛ぶのではなく走ることを選んだ。ムキムキの脚の筋肉に邪魔されて地面をついばむことができるように首もながくなってる。
おそらくダチョウの祖先が生息した環境では低い木ぐらいしかなかったのだ。だから木から木へと飛び移るということで飛行する能力を得られなかった。
彼らは地面をつよくけって助走をつけることで空に舞い上がったんだろう。が、脚の筋肉が発達し、すでに空を飛んで敵から逃げるよりも走って逃げたほうが早いということに気がつく。
彼らの住む環境では、走るのを妨げる環境ではなく、見渡す限りに地平線が続いていたんだろう。
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人の社会は、誰かと違うことをおそれる。それは、群れの論理というよりは、人の社会の論理だ。群は多様性を好む、何があっても誰かが生き延びるという道を選ぶ。
人の場合は、同じ作業を多くの手で行うということから社会が発達し、そこでは人は「交換可能な人材」という歯車化する。だから異質なものは間引かれる存在だった。
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が、人において歪な存在は、人という種においては特異点である。
ワシは子供の頃、いわゆる「偉人伝」が好きでずいぶん沢山の本を読んだが、そこにでてくる偉人たちは皆変わり者だった。
もちろん特異でなければ物語にならないというのもあるだろうが、実際にエジソンやらアインシュタインやら、どいつもこいつも社会不適合者といってもいいぐらいオカシイのだ。
が、かれらはその特異でもってパラダイムシフトを起こした。野生でいうところの進化と同じものだ。
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だから、親や家族やらは誰かと比べて「ない」ことに気を病むのではなく、誰かと比べて「ある」ことを探すべきだ。
足がないということが「ある」。
手がないということが「ある」。
人にはない病気が「ある」。
それらは皆、特異点でギフトである。
家を持たない特異点の畑バカと食い物をつくることの出来ない大工バカのようにだ。人は出会うことで進化する。
ポジティブとは意識的な解釈のことではなく、ネガティブを打開する工夫のことだ。