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西鶴アーカイブ

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味平カレー現象」という罠

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(2016/11/24)

たまにはお仕事のお話しでも書いておこー。

包丁人味平」のエピソードでこんなのがある。

味平が修行するキッチンブルドックに一人の客が来てカレーがまずいと文句を言う。

ブルドックのチーフの北村は、その客にカレーをつくり治し、今度は美味いと言わせる。

チーフの手品のような料理に味平は首をかしげるばかりだ。

実はこのキッチンブルドックは、オフィス街にある。
だから味は基本的に薄味になっている。

ところが、マズイといった客は労働者で、1日汗をかいている。だから濃い味を身体が求めている。

服装から客の仕事を察したチーフの北村は、カレーの味を濃くした。ただ、それだけなのだ。



ガキのころにこのエピソードを読んだワシは、ほほーと思った。
包丁人味平は、料理漫画で前半は、なにやら包丁や料理の技を競うジャンプ定番の格闘技漫画なのだが、このエピソードだけで、料理には誰もが100点をだせるトップなんてもんはないんだよという、原作者の思想が出ている。

つまり一人一人に合わせた味、おもてなしの心につながるという優秀なエピソードだ。
はて、料理はそうである。が、これはほかの分野でも当てはまる。

これをワシは「味平カレー現象」と言っている。


汗をかいた労働者が濃いカレーをうまいといい、オフィスで働く人が薄味をうまいというように、たとえば音楽だと、心が疲れている人は、落ち着いた曲を好み、元気が欲しい人は、元気な音楽を好むという具合だ。

デザインだと、心が疲れている人は落ち着いた配色を好み、元気が欲しい人は明るい配色を好む。
子供は、とにかくいろんな情報を吸収する必要があるから、派手でゴチャゴチャしたものを好み。
ジジババになると脳の処理能力が疲れるので、落ち着いて情報量の少ないものを好む。

そんな感じで、カレーとー同じように人の状態によって好みや、感じ方はコロコロ変わる。



ではどうするのか?汎用性とは何か?
これは、いうまでもないことだが最大公約数を狙うのが基本になるし、それがビジネスというもの。
それはつまり戦略ということになる。

ワシが打ち合わせの時に「誰をターゲットにしているのか」をひつこく聞くのはこのためだったりする。

「いいデザイン」なんてものは存在なんかしなくて、そこには「誰にとって」という主体があってこそはじめて存在する。


んがっ!意外とこれがよくわかってない人が多い。

これは、投票形式とかコンテスト形式の弊害ではないかと思うんだが、ことごとく「いいデザイン」を求めていて、先に書いた文脈「誰にとって」が抜け落ちている。
「誰にとって」が抜け落ちたものは、ビジネスではなくたんなる趣味になる。ゲージツカといえど、この部分をはずしてはいないし、だからこそ食っていける。
もちろん、「あえて」分母を少なくするという戦略もありえるが、分母が仮に自分だけとなると、もうこれは表現ですらない。

つくるほうも、選ぶほうも、この罠に陥ってしまうと、キッチンブルドックで濃い味のカレー出して、客がこねーということになってしまう。



選ぶときにもこの罠が待ち受けていて、自分の状態…疲れているとか、連日徹夜でゆっくりしたいとか、愛犬が他界して寂しいとか、そんな気持ちが影響を受けてることは常に自覚すべきだ。いかに色眼鏡で見ているかを意識さえすれば、この罠に陥ることはない。自分がターゲット層になりきることで、罠は回避できる。

客観性とはそういうことだ。