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男とイッパツやったら、なんか色々悩んでたことが吹っ切れた~経済資本主義の競争原理から産み出される格差

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(2015/4/25)
夜の9時から朝の5時まで座禅を組む。結跏趺坐してないから座禅とはいえないけど、わしはメディティーションとか、瞑想という言葉があんま好きではない。
 
すぐにカラスがやってきて、タイシャクテンがどーこー言い出す。こいつは、ワシがいつからか八咫烏と名付けたものだから、最近は片足でピョンピョンしている。本人は3本足のつもりなんだろうが、まあ偶数と奇数の違いぐらいにしか思ってないのだろう。
 
座禅を組んでいて出てくるホトケは槍で突き殺せとはよく言われる。
 
これは自分の中の想念が形になって惑わすということらしいが、メディテーションとか瞑想とかのメソッドの多くは、この部分を説明仕切れてないナンチャッテが百花繚乱としている。
 
ここで出てくるホトケ、あるいは自分に智慧を授けてくれるモノ。それは、自分が作り出した「今の自分を肯定する言い訳」であると言うこともできる。それはまだ入り口で、さらにそこに「なぜ」という疑問符を鍵束にして、奥へ進んでいかねばならない。
 
このカラスは、焼き鳥にしたほうがいいのかも知れないが、ながい付き合いなのでほうっておいてる。うるさいだけで、特に害もない。
 
タイシャクテンが言うには、「お前は、この前デクノボーになるなんて言ってたくせに、何を自分のために生きとるねん!他人の人生の中に生きれよ!」ということだった。
 
この前ネットでしらべたら、このタイシャクテンという奴は戦いの神様らしい。どうりで「論理の刃」だとか「優しさのやいば」だとか、そんな厨二病的な言葉を使いたがるわけだ。
 
そんなとこで、エースがキュウキュウ言い出して中断した。
 
タイシャクテンと名乗るオッサンのいうことはよくわかる。これはボランティアしろとかでは、もちろんない。
 
あるネットの書き込みを思い出した。
 
 
 
「男とイッパツやったら、なんか色々悩んでたことが吹っ切れた」
 
これは、どかのコンサルのブログで相談者が書いてた一文。
 
どんな内容かはっきり覚えていないし、どういう相談かも全部は載せてはいないのだろうけど、たしかこの相談者はいろんな「べき」に縛られて身動きが取れなくなっていたみたいだ。
 
で、ゆきずりのイッパツがよかったそうで、「なーんだ、そんなに悩むことなんてなかったんだ」と吹っ切れたと。外の世界は楽しいことがたくさんある。外に目を向ければいいんだと。
 
どういう状況か知らんが、自分の思い込みで自分が縛られていて自分で自虐的になってる状況を抜け出せたということなんだろうが、はて、ここでワシは前にも書いた快楽とシャーワセについて思いが飛ぶ。
 
自分の好きなこと、ワクワクすること、ウキウキすること、そこにフォーカスしろとは最近ではどこにでも転がっているメソッドで、さらにはそれが天命であるとか、そうすることで全てがうまくいくとか、運命が味方するというようなことが言われたりする。
 
けれど、ここで自分の好きなことというのが、どういうことかがあまり語られてはいない。
だから、自分の好きなことイコール快楽だというふうに思っちゃうこともあるんじゃないかと言うこと。
 
ここでも、なぜという問いかけが重要になる。なぜ、好きなのか?なぜワクワクするのか?なぜウキウキするのか?
 
そう考えると男とイッパツは快楽で、そこには依存性がでてきてイッパツこそがジンセーだというとんでもないリスキーな道も隠されているということがわかる。
 
運命は味方はしてくれるが、導いてはくれないのだ。
 
もちろん俯瞰できれば、イッパツの道も道ではあるし、それが依存という蟻地獄につながる道であると決めつける必要もないし、俯瞰できれば蟻地獄にはならない。自分に自分が主導権を持つとは、そういうことだし、コントロールできれば、崖に面した道でも道ではある。
 
 
 
今は、ヒトの歴史の中で最高に快楽に満ちてる時代だと思う。ネットワークで誰もがつながるから快楽にはすぐにアクセスできる。
 
チャンスなんてものは、あまりにもあり過ぎて、もはやチャンスとは言えない。
 
そんな恵まれた状況の中で苦悩から脱却する方法は、たしかに単純で、自分をラブミーすることだ。「苦悩しなーい」と決め打ちすることで、いくらでも快楽に手をのばすことは可能なのだ。
 
快楽とは、外部刺激により欲求が満たされ想起される、反応としての感情だ。
所属の欲求が満たされる、褒められる、尊敬される、イイネがつく。それらは成功報酬としての快楽であり、これは強烈なモチベーションになる。
 
これらの快楽を原動力にしていけば、常に元気でアグレッシブで、モテモテで、ポジティブでと、ハッピー感が沸き、シャブのように不健康なわけでもないから、いうことなしだ。
 
ほとんどのメンタル系コンサルがこのメソッドを利用している。これはある意味、快楽産業でリピーター続出で何十億のマーケットだというのも頷ける。
 
しかし、はて、「自分がハッピー!」。これでいいのか?
 
自分が気持ちよくハッピーでいるために、誰かを責める、寂しい思いをさせる、自分の世界に引っ張り込もうとする、心中しようとする。これでいいのか?
 
快楽依存症の本人は、常にハッピーなのだ。そこに葛藤があるから不幸になるだけなのだ。
 
パッカンして葛藤がなくなれば、ギャンブル依存も、セックスも、仕事も、ワークも、ボランティアも、慈善事業も、シャブでさえ、前述の相談者のように、自分はハッピーになれる。
 
ココロのカテゴリーではあるが、この自分がハッピーは、経済資本主義の競争原理から産み出される格差と同質のものではないのか?
 
ヒトの社会は循環でできている。常に回転する遠心力でコマのように成り立っている。自分がハッピーでは、このコマはいずれ回転を止めるだろう。その停滞をアセンションとよぶのなら、それこそ槍で突き殺すべき思想だ。
 
 
 
ワシはなぜか自分でもわからなかったのだが、すこし前から宮澤賢治の詩のデクノボーということばがやたら引っかかった。この時は、まだ快楽とシャーワセという考察はできていない。
 
おそらく、タイシャクテンが言うのはここだろう。
 
やつのもつ、優しさの刃というのは、自分のハッピーではなく、誰かのハッピーが自分に還元されるのだと言いたいに違いない。
 
ヒトのために生きる。それは自分のために生きることと同じだ。
それは快楽ではなくシャーワセを創造するのだと。
 
ホリエモンは、近代の講演会で「今を生きろ」とカッコよく決めた。ワシは、「ヒトのジンセーを生きよ」とカッコ悪く決めれるだろうか。
 
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