turuya

西鶴アーカイブ

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【どろろ】

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身体の48箇所を魔物に持っていかれている。
 
一匹の魔物を倒すたびに、身体のパーツが戻ってくる。
 
皮肉なことに、身体のパーツが一つ戻るごとに戦闘能力は下がってくる。
 
魔物の牙を受け止めていた頑強な人口の右腕は今や生身となり、牙を受け止めようとすれば、たちまち腕ごと持っていかれる。
 
息をする必要がなかったので、いつまででも水中いることができたのに、肺を取り戻した瞬間から、溺れそうになる。
 
気配をさっちしていたのに目を取り戻したことで、視覚情報に頼らなければならない。
 
身体のパーツを取り戻す度に魔物が強くなっていってるんだと思っていたが、どうやらそれは錯覚で、実は自分が弱くなっているんだと気がついた。
 
生身の身体は守る必要がある。その守りが戦闘においては弱点になる。生きるということに執着すればするほど、死というものが立ち上がってくる。
 
妖刀百鬼丸を授けてくれた琵琶法師は、それが輪廻だといった。それは所有することから始まったのだといった。
 
 
それでも、身体のパーツを取り戻すのはありのままの自分でありたいという、ただそれだけの想いからだ。
 
幸いにしてこの左手に仕込んだ唯一魔物を切れるという刃「百鬼丸」は、まだ健在だ。
 
だが、いつ左手を取り戻すかは賭けみたいなものだ。
左手を取り戻してこの百鬼丸が使えなくなった時、長い旅は終わりになる。その時は、もう他のパーツを取り戻すことは不可能になる。輪廻は終わる。
 
 
これは、手塚の「どろろ」の話だが、考えてみるとすげー物語だ。
 
子供の頃は、ふふふーんと楽しんで読んでいたけど、リアルに自分のこととして想像してみると、これは怖い。
 
けど、ここに身体というものの本質を考えると色んな思索ができる。
 
身体とは何なのか?産まれるとは何なのか?
 
 
この前、ある発表でワシはこんなことを言った。
 
人生において、「問題」ってものは無いんじゃないか?
問題はすべて「テーマ」という言葉に置き換えることができるんじゃないか?
 
問題は、そこにあるテーマに気がついたときに解決できるというよりは霧にように消えてなくなるんじゃないか?
 
なら、琵琶法師のいった輪廻は、テーマによって生じたものかも知れない。
 
テーマ(主題、あるいは主旋律)が、まずはじめに生じた。
そこにあらゆる輪廻が渦を巻いて形成されてきた。
 
たぶん、そういうことなんじゃないか。(2016/9/25)